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立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
<注:本ツアーは、2022年3月10日〜13日、新型コロナウイルスの感染対策に十分配慮した上で実施しました。>

 3月10日午後、宮城県気仙沼市唐桑町の馬場国昭さんにお会いしました。国昭さんは東日本大震災によって母屋・納屋共に津波の被害を受けました。震災後、訪れた学生ボランティアに開放した納屋は「カエル塾」と呼ばれ、今でも訪れる者を迎え入れてくれる場所となっています。私たち一行もカエル塾でお話を伺いました。 

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『一輪咲いて咲き増える』
 カエル塾に一歩踏み入れて最初に目に飛び込んできたのは、天井に貼られていたポスターのこの言葉でした。お話の始めに、私たちとの出会いについて「1つの花びらからいろんな花びらを咲かせて今に至っている」と表現してくださり、震災後にボランティアとして入った学生から始まって、私たちが国昭さんと出会う今に至った、そのことを表した言葉なのだとわかりました。ここから、国昭さんのお話に引き込まれました。

 まず、唐桑や南三陸を襲った津波の映像を見せてくださいました。「わあ、船がなくなるよ」という人々の生々しい声、黒い波と、迫り来る家、そして、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声。震災当時小学生だった私たちは、テレビで流れていたはずの津波の映像すら記憶が曖昧であり、実際に体験した方の視点から見る津波の映像は衝撃的でした。
その後、国昭さんの11年目に寄せた思いに耳を傾けました。「あの日の悲惨な記憶は今なお回り灯籠の如く脳裏を駆け巡っております」という文章と共に、震災について「一口で語れない」「区切りはない」と話されていて、震災がもたらした悲しみや惨状は、今なお色褪せていないと感じました。

 それでも、度々、国昭さんが述べられたのは、震災に対する感謝の言葉です。

 今回の現地活動に至るまで、私たちはお会いする方々について事前に様々な資料を参照し、国昭さんについても多くの資料を読みました。その中で、どうしても理解できなかった言葉が「震災ありがとう」でした。この言葉に違和感を抱いた私は、その言葉の本質的な意味を理解したいと思っていました。わからないなりに想像していたのは、国昭さんが「旅人」と呼ぶ当時の学生ボランティアの存在が「震災ありがとう」という言葉につながったのではないかということです。ところが、国昭さんの語りを聴いて、この「旅人」という言葉には11年経って訪れた私たちも含まれていると気づきました。私たち「旅人」にも誠実に話してくださっている感覚から、お会いする前に感じていた、震災に対する感謝の言葉への違和感は小さくなっていきました。

 そして「震災ありがとう」という言葉は、震災「そのもの」に感謝をしているのではないと実感した一言があります。それは、「私にとっては、どう生きてきたかというよりも、これからどう生きるかということであるならば、震災もある意味でありがとうという言葉が出せるようになった。」という言葉です。震災が起こったことは元に戻せることではないから「これからどう生きるか」を考えるとおっしゃっていて、未来への視点が、感謝の言葉につながっているのかもしれないと感じました。けれども、震災に対して「よかったとしかいいようがないんだよ」「そう形容しなけりゃ自分が前に進めないんだよ」という言葉もありました。それでも前を向くということ、「それを支えてくれたのがやっぱり皆でないかな」という国昭さんの言葉。この対話を通して、国昭さんが述べる震災への感謝の言葉には、震災がもたらした悲惨さは色褪せぬままに、震災後に出会った人々との縁・つながりを大切に生きていくという想いが込められているように感じました。

 さらには、震災の話だけではなく、私たちが日常生活で抱く葛藤や悩みに対しても、一人一人と向き合って答えてくださいました。お話していくうちに、今回の授業のテーマでもある「被災地と関わり続けることの意義」についての議論にも発展しました。「ただ会いたい」ということそのものが本質ではないかという意見に対し、「その答えをまっていた。ただ会いたい。ただ来たい。ただそれだけの気持ちで入ってこれないかな」という国昭さんの返答。相手とまっすぐに向き合おうとすることから生じた議論だったように思います。

 「またいつでも帰ってきなさい。」国昭さんの一言で、カエル塾は私たちの帰る場所となりました。

異文化コミュニケーション学科2年 高木優衣
(学年はツアー当時)

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