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立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
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震災直前と現在の米沢商会ビルの外観(それぞれ上と下)

米沢祐一さんは、当時陸前高田市の米沢商会ビルで包装資材や事務用品を取り扱う「パッケージプラザ ヨネザワ」というお店を一家で営んでいました。東日本大震災の津波発生時、ご自身はビルの屋上に逃げ一命をとりとめましたが、指定避難所に避難したご両親と弟さんを亡くしました。震災直後に町の人々の声にこたえて、またそれに支えられてプレハブの建物でお店を再開し、現在に至ります。今年の秋前には、かさ上げされた土地の上に立つ建物にお店を移転するということでした。

写真上は、震災直前に撮影された米沢商会ビルで、下の写真は今回私たちが撮影したものです。実は、2011311日は、お店は大きなセールをしていて上の写真からは、当時のお店の賑わっている様子が目に浮かびます。それに対して現在のビルの周辺は閑散とした風景が広がっていて、本当に8年も経ったとは思えない復興の進み具合を目の当たりにするとともに、寂しさを感じました。

 

この度、私たちは米沢商会ビルの中に実際に案内していていただき、米沢さんが当時体験した津波の記憶を追体験しました。地震発生後、米沢さんは、このビルの近くにある倉庫で揺れにより散らかった商品の片付けをしていました。ひと段落してビルに戻ると、ご両親と弟さんはすでにビルの後ろにある、避難場所として指定されていた市民会館に避難していました。とっさの判断で1人ビルに残った米沢さんは、はじめは津波のことは頭になかったため、そこまで急ぐことなく一階から二階に上っていきましたが、二階の窓から迫ってくる黒い波を見て焦りを感じ、二階から三階は一目散に駆け上りました。三階の窓から同じように外の黒い波を見てさっきよりも高い水位で迫ってくるのを確認し、「これはダメだ」と思い急いで屋上に出ました。屋上に出るドアを開けると、目の前には本来見えるはずののどかな街並みは見えず、全部が真っ黒だったといいます。屋上を超えて自分の足元までその黒い津波が来ることがわかり、屋上に据え付けられた煙突に行くはしごを登りはじめ、津波はその途中で屋上を超えてきて、自分の足元に迫ってきました。そして写真のように煙突の頂上部分に両手で煙突の端をつかみしゃがんだ格好で避難しました。津波は、足元わずか10センチメートルに黒い水と土埃がうねりを伴って押し寄せ、その高さで止まりました。この時点で津波は地上から約15メートルに達していたことになります。もし津波があと10センチメートル高くきていたら、米沢さんは足を持っていかれ、助からなかったことは必至でしょう。しばらくして米沢さんがふと周りを見ると360度すべて津波で、ビルの後ろにあった、そしてご両親と弟さんが避難した市民会館の屋根は見えず、津波の底に沈んでいました。ここで、米沢さんは、「ああ、もう皆生きてないな」と、3人の死を覚悟し、さらにビルより海側の人々は亡くなっただろうということも悟ったといいます。


しばらくして津波が引き、煙突から降りた米沢さんは、それまで気が張っていて感じていなかった寒さを感じ始め、防寒のため、たまたま屋上にあった段ボールとお店のビニール袋で全身を覆い、風を少しでも避けようと煙突のすぐ下のところで一夜を過ごしました。私たちがお話を聞いていた日も非常に寒く、寒さに皆震えていたのですが、米沢さんが屋上で過ごしたこの時の気温は当時の記録を調べるとなんと氷点下に達し、しかも津波により衣服が濡れた状態で何時間もさらされたため、低体温症になっていたといいます。


次の日、米沢さんは、上空をヘリコプターが飛びかい、ビルから離れた建物の屋上で救助されている様子を見て、ビルより海側の人々はもうなくなったと思っていたけれど、自分と同じように生き残った人がいたことを知ります。救助を待ってもなかなか気づかれなかったため、ヘリコプターから見て分かりやすいように米沢さんは屋上の津波が引いて残った土の上に「SOS外に出れない」と書き、救助を求め、昼過ぎに救助されました。


その後、自分の家族を探すため毎日遺体安置所を巡り、のちに警察からの連絡があり、ご両親、その後弟さんとご遺体の形で再会することになります。いくつかの遺体安置所を回っているこの間、身元確認のために多くの亡くなられた方々の顔を見ていく中で、お店によく来てくれたお客さんや、近所のよく知る人たちを見つけたといいます。つい最近までおしゃべりしていた町の仲間と、こんな形で再会することを誰が想像できたでしょうか。また、この時にご遺体と再会することができず、今も行方不明となっている多くの方々のご遺族を思うと、胸を締め付けられる思いがします。


この日は大震災があった3.11の次の日ということもあり、説明する米沢さんの声が時々途切れる場面もあり、特にご両親と弟さんとの最後の会話や、三人の死を覚悟したという場面では、涙をこらえることができませんでした。


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米沢さんが避難した煙突の頂上部分


お話の最後に「何度でも訪れてほしい。そしてビルから見える変わっていく景色を一緒に見たい。」と米沢さんがおっしゃっていたことが印象的です。米沢さんはこのビルをご自身で震災遺構として保存しています。その決心の裏には多くの悩みがあったことと思います。しかし、こうして自分の体験を話して伝えていきたいという思いからビルを残す決断をされたことは、陸前高田市のまちや津波を知らない私たちにとって本当にありがたいことです。体験談を繰り返しお話してくださることは決して簡単なことではないと思いますが、大震災を知らない世代の子どもたちにもぜひ伝えていっていただきたいです。


私が次に訪れたときには、今は建物や人のない屋上からの景色がどう変化しているのかを、ぜひ拝見したいです。人々の賑わいが少しずつでも戻ってくることを心から願います。また、私もこのようなブログを通して、あるいは身近な人に話す機会を増やすなどして、なるべく多くの人に伝えていけたら、と思います。最後になりましたが、このような機会を設けてくださった米沢さんに改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。

(社会学部2年 大河原咲良)

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【2019/05/15 00:00】 | 未分類
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