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立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
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岩場を案内してくださる千葉正樹さん


ツアー3日目の午前は、前日までとは雰囲気を変えて少々スリリングな体験を。唐桑半島で農家を営まれている千葉正樹さんにガイドをお願いし、巨釜・半造付近の沿岸部の岩場でトレッキングを行いました。千葉さんは農業のみならず、半島のツアーガイドやトレッキングガイド、カヌーやシーカヤック体験の提供といった「唐桑へ人を呼ぶ活動」をされています。Frontiersでは、昨年のツアーの際もお世話になりました。


Trekking

慎重に岩場を進むメンバー


今回は一般参加者も含めて初めて体験するメンバーが多く、足場のない岩場での移動に悪戦苦闘。どこに手足をかければバランスがとれるかを自分で考え歩みを進めていくことは、まるでパズルのような面白さがありました。眼下に広がるは、荒々しい波が音を立てながら打ち寄せては返す東北の海。そのあまりの迫力に、大自然の偉大さを改めて実感せずにはいられません。折石をのぞめる大きな岩に上らせてもらったり、打ち上げられた天然のホヤを初めて目にしたりと物珍しさに心躍らせ、そうしてようやくたどり着いたのは、飛沫のかかる波打ち際ぎりぎりの場所でした。「一見海に浸かっていなくとも、岩の色が変わっているところまでは波の来るところ。逆にそれさえきちんと見極めれば、海はそんなに怖くはないんだよ」と千葉さん。こうしたこともあり、私たちは間近で臨場感ある波を楽しむことができました。改めて、こういった場に来る際の正確な知識の大切さを痛感します。とはいえこの日は一際波が荒かったらしく、最も大きな波が大量の飛沫をまき散らしながら轟音とともにこちらに向かってきたときは、さすがに恐怖を感じました。それとともに突きつけられたのが、自然を前にした人間のなんとちっぽけなことかということ。日常にはない、まさに「生きた体験」ができたのではないでしょうか。


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この日一番の波しぶき


トレッキングを終えた後に、巨釜~半造へと抜ける唐桑の自然を堪能しました。唐桑独特の草木が生い茂る森の中を進むのは、東京での生活に馴染んだ私たちにとってとても新鮮かつ気持ちの良い経験となりました。途中、メンバーの要望から海岸に寄り道した際、砂利の浜辺を進みながら聞いたのは、近年海岸がコンクリートによって固められ、天然の浜辺が少なくなっているという千葉さんのお話。中でも印象的だったのは、「津波で破壊されたのは人工物であり、自然はほぼその形を変えていない」ということでした。もはや当たり前となった人工物に囲まれての生活ですが、それらはすべて自然界にとっては異物も同然なのだと。自然災害を通して、人々の作り出したものの有限性を知り、その儚さ、あっけなさに、しみじみと想いを馳せたひと時でした。

(文学部3年 森田樹奈)


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【2019/05/29 00:00】 | 未分類
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震災直前と現在の米沢商会ビルの外観(それぞれ上と下)

米沢祐一さんは、当時陸前高田市の米沢商会ビルで包装資材や事務用品を取り扱う「パッケージプラザ ヨネザワ」というお店を一家で営んでいました。東日本大震災の津波発生時、ご自身はビルの屋上に逃げ一命をとりとめましたが、指定避難所に避難したご両親と弟さんを亡くしました。震災直後に町の人々の声にこたえて、またそれに支えられてプレハブの建物でお店を再開し、現在に至ります。今年の秋前には、かさ上げされた土地の上に立つ建物にお店を移転するということでした。

写真上は、震災直前に撮影された米沢商会ビルで、下の写真は今回私たちが撮影したものです。実は、2011311日は、お店は大きなセールをしていて上の写真からは、当時のお店の賑わっている様子が目に浮かびます。それに対して現在のビルの周辺は閑散とした風景が広がっていて、本当に8年も経ったとは思えない復興の進み具合を目の当たりにするとともに、寂しさを感じました。

 

この度、私たちは米沢商会ビルの中に実際に案内していていただき、米沢さんが当時体験した津波の記憶を追体験しました。地震発生後、米沢さんは、このビルの近くにある倉庫で揺れにより散らかった商品の片付けをしていました。ひと段落してビルに戻ると、ご両親と弟さんはすでにビルの後ろにある、避難場所として指定されていた市民会館に避難していました。とっさの判断で1人ビルに残った米沢さんは、はじめは津波のことは頭になかったため、そこまで急ぐことなく一階から二階に上っていきましたが、二階の窓から迫ってくる黒い波を見て焦りを感じ、二階から三階は一目散に駆け上りました。三階の窓から同じように外の黒い波を見てさっきよりも高い水位で迫ってくるのを確認し、「これはダメだ」と思い急いで屋上に出ました。屋上に出るドアを開けると、目の前には本来見えるはずののどかな街並みは見えず、全部が真っ黒だったといいます。屋上を超えて自分の足元までその黒い津波が来ることがわかり、屋上に据え付けられた煙突に行くはしごを登りはじめ、津波はその途中で屋上を超えてきて、自分の足元に迫ってきました。そして写真のように煙突の頂上部分に両手で煙突の端をつかみしゃがんだ格好で避難しました。津波は、足元わずか10センチメートルに黒い水と土埃がうねりを伴って押し寄せ、その高さで止まりました。この時点で津波は地上から約15メートルに達していたことになります。もし津波があと10センチメートル高くきていたら、米沢さんは足を持っていかれ、助からなかったことは必至でしょう。しばらくして米沢さんがふと周りを見ると360度すべて津波で、ビルの後ろにあった、そしてご両親と弟さんが避難した市民会館の屋根は見えず、津波の底に沈んでいました。ここで、米沢さんは、「ああ、もう皆生きてないな」と、3人の死を覚悟し、さらにビルより海側の人々は亡くなっただろうということも悟ったといいます。


しばらくして津波が引き、煙突から降りた米沢さんは、それまで気が張っていて感じていなかった寒さを感じ始め、防寒のため、たまたま屋上にあった段ボールとお店のビニール袋で全身を覆い、風を少しでも避けようと煙突のすぐ下のところで一夜を過ごしました。私たちがお話を聞いていた日も非常に寒く、寒さに皆震えていたのですが、米沢さんが屋上で過ごしたこの時の気温は当時の記録を調べるとなんと氷点下に達し、しかも津波により衣服が濡れた状態で何時間もさらされたため、低体温症になっていたといいます。


次の日、米沢さんは、上空をヘリコプターが飛びかい、ビルから離れた建物の屋上で救助されている様子を見て、ビルより海側の人々はもうなくなったと思っていたけれど、自分と同じように生き残った人がいたことを知ります。救助を待ってもなかなか気づかれなかったため、ヘリコプターから見て分かりやすいように米沢さんは屋上の津波が引いて残った土の上に「SOS外に出れない」と書き、救助を求め、昼過ぎに救助されました。


その後、自分の家族を探すため毎日遺体安置所を巡り、のちに警察からの連絡があり、ご両親、その後弟さんとご遺体の形で再会することになります。いくつかの遺体安置所を回っているこの間、身元確認のために多くの亡くなられた方々の顔を見ていく中で、お店によく来てくれたお客さんや、近所のよく知る人たちを見つけたといいます。つい最近までおしゃべりしていた町の仲間と、こんな形で再会することを誰が想像できたでしょうか。また、この時にご遺体と再会することができず、今も行方不明となっている多くの方々のご遺族を思うと、胸を締め付けられる思いがします。


この日は大震災があった3.11の次の日ということもあり、説明する米沢さんの声が時々途切れる場面もあり、特にご両親と弟さんとの最後の会話や、三人の死を覚悟したという場面では、涙をこらえることができませんでした。


Mr_Yonezawa_20190312 

米沢さんが避難した煙突の頂上部分


お話の最後に「何度でも訪れてほしい。そしてビルから見える変わっていく景色を一緒に見たい。」と米沢さんがおっしゃっていたことが印象的です。米沢さんはこのビルをご自身で震災遺構として保存しています。その決心の裏には多くの悩みがあったことと思います。しかし、こうして自分の体験を話して伝えていきたいという思いからビルを残す決断をされたことは、陸前高田市のまちや津波を知らない私たちにとって本当にありがたいことです。体験談を繰り返しお話してくださることは決して簡単なことではないと思いますが、大震災を知らない世代の子どもたちにもぜひ伝えていっていただきたいです。


私が次に訪れたときには、今は建物や人のない屋上からの景色がどう変化しているのかを、ぜひ拝見したいです。人々の賑わいが少しずつでも戻ってくることを心から願います。また、私もこのようなブログを通して、あるいは身近な人に話す機会を増やすなどして、なるべく多くの人に伝えていけたら、と思います。最後になりましたが、このような機会を設けてくださった米沢さんに改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。

(社会学部2年 大河原咲良)


【2019/05/15 00:00】 | 未分類
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311日は8年前に震災が起こった日であり、1446分をメンバーそれぞれが過ごしたい場所で過ごすため、前日にユースホステルで話し合ったことをもとに、グループに分かれて行動しました。Kesennuma_Denshokan_20190311

私たちは午前中に、前日の3月10日にオープンした東日本大震災遺構・伝承館へ行きました。
伝承館では最初に映像を見ました。津波の映像などが放映されたのですが、英語の字幕もついていて、海外から来た方にも津波の恐ろしさが伝わるものとなっていました。そして、語り部の方のお話を聞きながら震災遺構を見学しました。その建物は気仙沼向洋高校として使われていたもので、震災当時のままの、教室に瓦礫が積み上がった状態で残されていました。津波は4階まで到達したそうで、階ごとの天井の傷み方の違いが特徴だと、語り部の方がおっしゃっていました。瓦礫が残った教室を見たとき、8年前から時が止まっているような感じがしました。実際に見る遺構の中は、本物なのでこの表現は妥当ではないかもしれませんが、ニュースで見たものよりも迫力があってリアルで、生々しいものでした。また、教室から見た景色は殺風景で、海の周りには防潮堤が作られ、震災以前の様子を、今の景色だけを見て想像することはできないほどでした。向洋高校では先生方の指示が的確だったために死者が出なかったそうです。このようなお話も、後世に教訓として語り継いでいけたらいいのではないかと思います。

この日はあいにくの豪雨で、暴風警報が発令されるほどの強い風が吹いていました。伝承館から陸前高田には、私たち学生6人と小倉先生の計7名で向かいました。まず、一本松茶屋で昼食をとりました。岩張楼ラーメンを食べたのですが、海藻類など三陸産の食材が多く使われていてとてもおいしかったです。また、偶然チャーシューが通常のものより大きいものだったそうでおいしかったしラッキーでした。「がんばろう」という読み方をすることにも感銘を受けました。そうして腹ごしらえをしてから歩いて一本松に向かいました。10分ほど歩いて、一本松の前に到着しました。

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そこには花を持った人々や報道陣の姿があり、厳かな雰囲気が漂っていました。到着から10分ほど経ち、14時46分を告げる放送、そしてサイレンが鳴り響きました。両手を合わせ、祈りを捧げたこのとき、心なしか風や雨が弱まっていたような気がしました。やはり特別な何かがあるのだろうか、不思議な力を感じました。

それから、八木澤商店で醤油ソフトを食べ、震災の写真展が開催されている会場で、語り部をされている「くぎこ屋」の釘子明さんから、特別にお話を聞く機会がありました。釘子さんは映像を使いながら震災前の様子、震災が起きてからのこと、そして、災害に備えることの大切さを教えてくださいました。

その後、陸前高田市の慰霊祭、慰霊碑、気仙沼市の慰霊祭に足を運び、震災で亡くなった方々にお祈りをしました。

私が3月11日という日に被災地を訪れたのは初めてだったので、その雰囲気を感じ取ることが重要だと思っていました。震災を忘れないということの大切さを改めて知るとともに、被災者の立場からすると忘れたいという気持ちもあるなど様々な感情が入り混じっている複雑な場所であるという風に感じました。

被災地にはまだ問題が山積みだと思いますが、それらを解決していくお手伝いをして、被災者の願いに少しでも応えられたら、と強く思いました。
(社会学部2年 鈴木美春)

【2019/05/08 00:00】 | 未分類
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Mt_Anbasan20190311
安波山から気仙沼市街地を眺める

3月11日、午後2時46分。
この大切な時間を、私は港周辺を一望できる安波山で過ごしました。気仙沼市街地の北に位置する安波山は、震災発生後に津波から逃れるため住民が避難した場所として知られています。

毎年この日になると、人々がここを訪れ、鳴り響くサイレンとともに祈りを捧げています。この日は、悪天候の中でも多くの方々が手を合わせていました。涙を流しながら黙祷されている方もおられ、ひとりひとりが思い思いにこの時を過ごしていることが見て取れました。この光景から震災当時を思い返し、この場にいる自分も無縁ではなかったということを実感させられる時間でした。


黙祷後、私は安波山の山腹にある駐車場から山頂へと足を運び、より高い場所から気仙沼の街並みを俯瞰しました。写真中央左には、今年4月7日に開通したアーチ型の気仙沼大島大橋も見えます。その右手前に見える白く細長い、周りを鉄骨のようなもので囲われているのが、現在建設中の気仙沼湾横断橋の主塔部です。写真右に向かって、橋脚や道路の基礎部分が伸びているのがわかります。これらの橋がアクセス向上だけでなく、救急搬送時など一刻を争う事態で1人でも多くの人を救うことのできる命のかけ橋の役割をも果たしてくれることを願っています。


その後、気仙沼市内で行われている2カ所の慰霊祭へと向かい、それぞれの場所で献花しました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、改めて震災と向き合うことの意義を感じました。震災から8年が経過し、記憶の風化も進みつつある現状の中で、私たちができることとしてまず挙げられるのは震災を「知る」ことであると考えています。よそ者の1人ではありますが、震災をもっと「知る」ことで関わり合いや向き合い方について深く考えていきたいと思います。

(社会学部2年 名和純)



【2019/05/01 00:00】 | 未分類
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