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立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
<注:本ツアーは、2022年3月10日〜13日、新型コロナウイルスの感染対策に十分配慮した上で実施しました。>

 「唐桑」の地名をよくご存じの方も、初めて聞いた方もいらっしゃると思います。私は、このプロジェクトに携わって初めて知ることになりました。唐桑は宮城県気仙沼市に位置する地区で、リアス海岸の唐桑半島を含む地名です。
 私が訪れて目にした2022年のこの町は、山の斜面にところどころ家があり、そして海がどこへ行っても見ることのできるところでした。そして、草木と海が融合する景観は本当に美しく、心を奪われてしまいました。

 しかし、そんな美しい景観を持つ唐桑に、高さ10メートルほどの防潮堤が完成しつつあります。命を守るために作られている防潮堤ですが、目の前に広がる灰色で、とても大きく無機質な物体が存在し、本当に町を守るために存在しているのだろうかと疑ってしまうくらい、美しい唐桑を、静かに蝕んでいくような光景でした。

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 防潮堤が必要なのか、そうでないかという話は、唐桑へ行く前から授業の中で議論したことでした。当初、その中で、防潮堤を作ることに反対の意見について、私は疑問に思っていました。

 美しい景観が損なわれることが、命を守るよりも、そんなにも大切なことであるのだろうか。

 海に面する唐桑では、東日本大震災の際、大きな津波に襲われて、犠牲者もいました。その被害は、海岸から徒歩3分程に位置し、私たちのRDYプロジェクトが定宿としている「唐桑御殿つなかん」の3階にまで及びました。失われた命があり、住んでいた家が壊されてしまった、この事実がある限り、防潮堤を作るのは当たり前なのではないか、命を守ることが最優先ではないか、現地に赴く前は、当然のようにそう思っていました。

 しかし、唐桑に実際に足を運び、現地の方々と出会って、お話を伺い、その光景を目にした時に考えが変わりました。海に面しているつなかんから見えたのは、一面に広がる灰色の防潮堤でした。以前では、当然のようにそこにあった海が見えなくなり、その海の声が聞こえなくなってしまったということです。
Karakuwa_shibitachi_20220311_kayano

 初めて現地を訪れて、復興に本当に大切なことは、地元の方々の「当たり前」を守ることであると感じました。地元の方々が「防潮堤建設に反対すること」=「ただただ、美しい景観を守りたい」という、単純なことを考えているのではなく、そこには、その言葉に秘められた大きな意味があるということ、その実現がいかに難しいのか、それが外にいる人にとっていかにわかりにくいことなのか、ということに気づいたからです。

 「海とともに生きる」、そのように生きている人々から、海が見える日常を奪うことは大きな重みがあるのです。もちろん、そこに住んでいる人や、何度も唐桑に足を運んでいる人に比べれば、私は初めて訪れた身であり、まだまだ唐桑のことを知ることはできていません。

 しかし、実際に足を運んで、地元の方々の目線と同じものに触れたからこそ、感じることができたものがあるし、その「当たり前」を奪われることの重みは、現地に行かなければ得ることができにくいものだと思います。

 一度しか訪れていない私は、唐桑に住む人々をまだ知ることができていません。そして、その人々が「『よそ者』に温かい」といわれることも、まだ十分に感じることができていないと思います。もっとしたいと思ったのは、やっぱり唐桑は魅力的な町であり、これから先も通い続けて、より深く知っていきたい、ということでした。

文学部文学科1年 茅野文音
(学年はツアー当時)
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<注:本ツアーは、2022年3月10日~13日、新型コロナウ イルスの感染対策に十分配慮した上で実施しました。>  

  ツアー2日目の3月11日(金)は、震災の発生時刻である14時46分をどのような場所で過ごしたいかを念頭にスケジュールを組みました。
  多くのツアー参加者が「気仙沼を一望できる場所に行きたい」と考えていたため、当日は標高239mの「安波山」に訪れました。
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▽写真 安波山山頂からの景色(畠山撮影) 
 中腹の駐車場でマイクロバスを降りて、山道を20分程歩くと安波山の山頂に到着し、そこには、私たちの他にも、地元の高校生やご夫婦などがいました。
 気仙沼を眺めて第一に感じたことは、本当にこの地で甚大な被害をもたらした津波が到来したのだろうか、という懐疑感であり、11年前の現実をすんなりと目の前の景色に当てはめることが出来ませんでした。
 震災発生時刻になると、防災無線から市内一斉にサイレンの音が響き渡り、黙祷しました。その後、私は前日に話を伺った唐桑御殿つなかんの菅野一代さん、そして震災以後、つなかんに毎年愛媛から通ってきている近藤千年さんのお話を思い出しました。被災者一人ひとりにそれぞれ違った思いがあり、11年という月日の中でも失ったものに対する悲しみの深さは不変であることを改めて認識しました。
 同時に、教えて頂いたことを今度は自らが語り部となって次世代に繋げていくべきであるという使命感も感じました。

国際経営学科2年 畠山ゆり
(学年はツアー当時)


<注:本ツアーは、2022年3月10日〜13日、新型コロナウイルスの感染対策に十分配慮した上で実施しました。>

 3月10日午後、宮城県気仙沼市唐桑町の馬場国昭さんにお会いしました。国昭さんは東日本大震災によって母屋・納屋共に津波の被害を受けました。震災後、訪れた学生ボランティアに開放した納屋は「カエル塾」と呼ばれ、今でも訪れる者を迎え入れてくれる場所となっています。私たち一行もカエル塾でお話を伺いました。 

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『一輪咲いて咲き増える』
 カエル塾に一歩踏み入れて最初に目に飛び込んできたのは、天井に貼られていたポスターのこの言葉でした。お話の始めに、私たちとの出会いについて「1つの花びらからいろんな花びらを咲かせて今に至っている」と表現してくださり、震災後にボランティアとして入った学生から始まって、私たちが国昭さんと出会う今に至った、そのことを表した言葉なのだとわかりました。ここから、国昭さんのお話に引き込まれました。

 まず、唐桑や南三陸を襲った津波の映像を見せてくださいました。「わあ、船がなくなるよ」という人々の生々しい声、黒い波と、迫り来る家、そして、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声。震災当時小学生だった私たちは、テレビで流れていたはずの津波の映像すら記憶が曖昧であり、実際に体験した方の視点から見る津波の映像は衝撃的でした。
その後、国昭さんの11年目に寄せた思いに耳を傾けました。「あの日の悲惨な記憶は今なお回り灯籠の如く脳裏を駆け巡っております」という文章と共に、震災について「一口で語れない」「区切りはない」と話されていて、震災がもたらした悲しみや惨状は、今なお色褪せていないと感じました。

 それでも、度々、国昭さんが述べられたのは、震災に対する感謝の言葉です。

 今回の現地活動に至るまで、私たちはお会いする方々について事前に様々な資料を参照し、国昭さんについても多くの資料を読みました。その中で、どうしても理解できなかった言葉が「震災ありがとう」でした。この言葉に違和感を抱いた私は、その言葉の本質的な意味を理解したいと思っていました。わからないなりに想像していたのは、国昭さんが「旅人」と呼ぶ当時の学生ボランティアの存在が「震災ありがとう」という言葉につながったのではないかということです。ところが、国昭さんの語りを聴いて、この「旅人」という言葉には11年経って訪れた私たちも含まれていると気づきました。私たち「旅人」にも誠実に話してくださっている感覚から、お会いする前に感じていた、震災に対する感謝の言葉への違和感は小さくなっていきました。

 そして「震災ありがとう」という言葉は、震災「そのもの」に感謝をしているのではないと実感した一言があります。それは、「私にとっては、どう生きてきたかというよりも、これからどう生きるかということであるならば、震災もある意味でありがとうという言葉が出せるようになった。」という言葉です。震災が起こったことは元に戻せることではないから「これからどう生きるか」を考えるとおっしゃっていて、未来への視点が、感謝の言葉につながっているのかもしれないと感じました。けれども、震災に対して「よかったとしかいいようがないんだよ」「そう形容しなけりゃ自分が前に進めないんだよ」という言葉もありました。それでも前を向くということ、「それを支えてくれたのがやっぱり皆でないかな」という国昭さんの言葉。この対話を通して、国昭さんが述べる震災への感謝の言葉には、震災がもたらした悲惨さは色褪せぬままに、震災後に出会った人々との縁・つながりを大切に生きていくという想いが込められているように感じました。

 さらには、震災の話だけではなく、私たちが日常生活で抱く葛藤や悩みに対しても、一人一人と向き合って答えてくださいました。お話していくうちに、今回の授業のテーマでもある「被災地と関わり続けることの意義」についての議論にも発展しました。「ただ会いたい」ということそのものが本質ではないかという意見に対し、「その答えをまっていた。ただ会いたい。ただ来たい。ただそれだけの気持ちで入ってこれないかな」という国昭さんの返答。相手とまっすぐに向き合おうとすることから生じた議論だったように思います。

 「またいつでも帰ってきなさい。」国昭さんの一言で、カエル塾は私たちの帰る場所となりました。

異文化コミュニケーション学科2年 高木優衣
(学年はツアー当時)


<注:本ツアーは、2022年3月10日〜13日、新型コロナウイルスの感染対策に十分配慮した上で実施しました。>

 ツアー初日の3月10日(木)は、仙台駅に着いたあと、目的地の唐桑に向かう途中で、南三陸さんさん商店街と旧・南三陸防災対策庁舎を訪れました。私は高校2年生だった2018年にも、南三陸町を訪れたことがあったので、4年ぶり2回目の訪問でした。私がこの授業を履修したのは、高校生の時に訪れた経験を、無駄にすることなく自分の中で意味あるものにしたいという漠然とした気持ちと、震災から11年経ちメディアでは復興したと伝えられている現地に実際に赴くことで、どれくらい変化したのか見てみたいという気持ちからでした。ここでは、今回と以前訪れたときとの比較をもとに感想を書き進めたいと思います。

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  ▽写真:(上)2018年3月23日、(下)2022年3月10日、いずれも大貫撮影

 前回訪れたときは、旧・南三陸防災庁舎の周りは全て盛り土で、このあたり一面に想像し難いほどの津波が来て、甚大な被害を受けたことを実感しました。また近くには、整備用の柵に千羽鶴がくくりつけられ、簡易的な台に献花が置かれており、実際に、この場で多くの人が亡くなったことを感じさせられ、その死を悼む人も身近に感じられ、リアルさがありました。建物は、一目見ただけで悲惨さが胸に突き刺さってくるような生々しさがあり、助かると思って屋上に避難したであろうたくさんの方がこの建物より高い津波に攫われて亡くなった無念さに胸を痛めた記憶があります。
 そして今回、旧・南三陸防災庁舎を訪れるにあたって下調べをする中で、この建物の保存か解体かについては、いまだ議論の最中ではありますが、2020年10月には建物を囲むように南三陸町震災復興祈念公園が全体開園したことを知りました。現在、一時保存・管理している宮城県は、いったん解体の決まっていた旧・南三陸防災庁舎について県有化を提案し、南三陸町もこれを受け入れました。解体を望む意見がある一方で、震災の悲惨さを後世に伝える役割があると捉えているということだと思います。

 しかし実際に再び旧・南三陸防災対策庁舎を訪れて、正直なところ私は「あれ、こんな感じだったっけ」とどこか拍子抜けしてしまいました。一時保存の整備工事のためか、前回と同じような感じを受けることなかったからです。一目見ただけで悲惨さが胸に突き刺さってくるような生々しさがあると記憶していたので、以前とは違う綺麗に整備された空間に少し驚きました。被災した防災庁舎は、広々とした公園の中心で「主役」のように佇んでいて、公園のどこからでも見渡せるようになっていました。私はなぜか、目の前に本物の被災した建物があるのに、「模型」を見ているかのような、どこか他人事に感じてしまうような違和感を覚えました。

 そこで私は、しばらく建物を眺めながら津波が来た時の様子を想像してみることにしました。鉄骨はぐにゃぐにゃに曲がったり飛び出たりしていて、当時の津波がいかにすごい力で押し寄せたかが伝わってきます。12ⅿの建物は、目の前に立ってみると見上げるほど高く、これより高い波があたり一面に来たなんて言葉に出来ないほど絶望的だと思いました。公園の高い位置から町全体を眺めてみると、海と防災庁舎が同じ視界の中に入ってきて、津波に飲まれた街の範囲の広さも感じることが出来ました。しかしそれでも、津波の被害の悲惨さを創造することは出来ても、やはり「何か違う感」(とは何か)は拭えませんでした。

 私はこのもやもやの正体は、被災地が「観光地化」され、形式化してしまったことへの違和感だと考えています。南三陸町震災復興祈念公園は、南三陸さんさん商店街の隣に位置していて、その二つは公園の整備とともに架けられたモダンな中橋で結ばれています。そして商店街の横では道の駅の建設が進められていました。
 以前、訪れたときは、公園自体が整備途中だったこともあり、建物もその周辺もより震災当時のありのままに近い姿でした。

 南三陸さんさん商店街で昼食をとっているとき、隣のテーブルに座っていた方が、「10年目の時はたくさん来てたけど、11年経つとテレビとかも全然いないねー。」と話していたのが印象的でした。この言葉から、勝手に10年という節目を作って、震災復興を形式化させてしまっているのは、今までの私を含め、テレビでしか被災地を知らないような人たちなのではないかと思いました。このツアーでは、「震災から11年経った今、私たちが訪れる意味」について考えを重ねてきました。ツアーを通して、本当にたくさんの人の暖かみに触れて、私が訪れるのは「被災地」ではなく、「唐桑」だったり、「南三陸」だったり、20年経とうが、30年経とうがそこに訪れる意味は変わらないのだと感じました。 

現代文化学科3年 大貫菜々
(学年はツアー当時)

 RDY事務局です。このブログについて、大変長いお休みをいただきました。新型コロナウイルス蔓延に伴い、2020年3月のツアーを中止して、2年半の月日が経過し、その間に、東日本大震災から満10年、満11年を迎えました。
 東日本大震災だけでなく、数々の災害は、多くの方々の困難や悲しみをもたらし、いまに至っても、その経験は語り尽くされるものではありませんし、教訓として忘れてはならないことと思います。
 その一方で、多くの人々の意志と協力が、強いつながりや助け合いを作ってきました。もちろん、それは支援する、支援される立場という一方通行のものではなく、現地の方々の意思を確認しながら、ご協力、ご理解を伴って成り立つものだと、日々考えています。
 私たちの東日本大震災RDY(立教生ができることをやろう)プロジェクトは、2012年から、宮城県気仙沼市唐桑町、岩手県陸前高田市とのつながりをもち、多くの学生が現地を訪れ、大勢の人々と交流して、生涯にわたって忘れ得ないような貴重な経験の機会を作ることができました。それは、ひとえに現地の方々の深いご理解と、ご協力により成り立ってきたものであり、そして、立教大学に厚志をお寄せいただいた方々の応援により、実現できたことと考えています。この場を借りまして、あらためてお礼を申し上げます。

 しかし、その交流や、現地に伺ってはじめてできる経験、貴重な機会を、新型コロナウイルスという、全人類に共通した困難、課題が遮ってしまいました。
 このかん、命を落とされた多くの方々に哀悼の意を表し、ご遺族には、心よりおくやみを申し上げます。また、社会や経済の状況の変化や、罹患や濃厚接触等により、つらい経験をなさり、いまもその最中にあるみなさまにはお見舞いを、この困難に立ち向かって克服するために日々努力をされてきた各方面のみなさまには感謝を申し上げます。
 
 そうしたなかにおいて、私たちのプロジェクトも、大きな変化を迎えました。2012年から有志学生、学生団体Frontiersの活動を社会学部が応援する形で、RDYツアーや各種の報告会等を実施してきましたが、立教大学社会学部の正課(授業)になりました。
 この授業化自体は、新型コロナウイルスの感染が蔓延する前の2019年度になりますが、このプロジェクトによって、「代々築き、育まれてきた現地の人びととの関わり・交流の地道な積み重ねがあり、この継続的な活動の蓄積によって得られたものの意味や価値は、震災から時がたてばたつほど、学生にとっても、現地の人びとにとっても、ことのほか大きくなっていっているのを感じ」(シラバスより)、より強固なものとしたいという思いを、社会学部に認めていただいたことで、実現しました。
 その授業化初年度の2020年度は、これまでに作り上げてきた交流を、なんとか続けることができないか、安全にかつ安心を確保した上で、こうした時代だからこそ実施することができないか、考えてきましたが、立教大学の全学的な方針に沿って、宿泊を伴う現地実習への学生参加が全面的に停止されたために、本講座を当該年度不開講とし、教員のみによる現地との協力関係の維持にとどめました。
 翌2021年度春学期は、はじめての履修生を迎え、これまでの経験の蓄積や現地で収集した資料をアーカイブ化して、それを基に学習し、交流を再開しようと模索しました。ただ、現地実習については、大学の方針に沿って学生参加ができない状態であったため、8月末に、教員とTA(ティーチング・アシスタント)のみが現地を訪れ、遠隔中継により、久しぶりの交流を実現することができました。
 つづく秋学期には、春学期と同様にアーカイブ資料を基にして、事前学習を行い、震災から満11年を迎えた2022年3月、感染対策を万全にして、現地のご理解をいただきながら、2年ぶりに、履修学生全員が参加して、これまで以上に充実した現地交流を行うことができました。

 引き続き、現地交流に参加した学生による報告を掲載していきます。
 

【2022/08/19 17:00】 | 未分類
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