立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科2年
珠村 智

 被災地を好きになることが、復興支援ボランティアを続ける動力源ではないだろうか。私はFrontiersの活動を通して東北を好きになることができた。今回のツアーでは唐桑半島にある早馬山や巨釜に初めて行くことができた。壮大な光景は、まさに景勝地という言葉がふさわしい。そんな、見たことのないすばらしい景色を、5回目の唐桑にしてようやく見ることができた。東北のことを、また一つ好きになった。
最近強く感じることがある。東日本大震災が多くの人の心、そして人生に強い影響を与えたということだ。それは現地にいる方々だけでなく、東京に住む私たちのような学生でさえもかなり影響を受けている。Bさんが使う「震友」という言葉が表すとおり、震災がきっかけとなった出会いがある。
Bさんには毎回のツアーで会いに行っていた。しかし8月に実施したツアーではBさんに会うことができなかった。がんの手術のため、仙台の病院に入院していたからである。その後退院なさったため、今回のツアーでは3日間通してお話しを聞くことができた。仮設住宅でお話を聞くなど、毎回貴重な経験をさせていただいている。
 少し不謹慎だが、私は震災を機に東北のことを大好きになった。震災がなければこんなにも東北に行くことはなかったし、Bさんのような方々と会うことはなかった。Bさんだけではなく、東北で出会う皆さんから学ぶことは本当に多い。そうしたものは東京でいつも通り生活していたら絶対に知ることがない。唐桑ツアーでは震災に関する話だけでなく、プライベートなことまで、いろいろな話をする。だからこそ東北を好きになれたと思う。
 ところで、今回のツアーでは、痛烈に感じたことがある。災害を含む、様々なリスクである。釘子明さんから避難所運営のお話しを聞いたことで、いかに震災後の生活が壮絶なものか、垣間見えた。震災発生後、多くの人が避難所に集まる。そこで生じる問題を私たちはよく知らない。多くの人が災害の起きたその一時点だけを見ていて、震災後に対する関心が足りないことを痛感した。私たちは、リスクを想定することができていない。想定するに足りる知識も持ち合わせていないと感じる。
 今回のツアーでは一部の参加者が体調を崩すなど、想像していなかった事態が起きた。自分も以前、唐桑に行った後に体調を崩したことがある。にもかかわらず、参加者の健康状態を配慮することができなかった。また、最終日の夜には地震が発生した。私は地震の発生に気づかず、いかにリスク管理ができていないかを気づかされた。地震発生時、私たちは海のすぐそばにいたため、地震だけでなく津波にも警戒しなければならなかったと、今は思う。当時は地震に気づいていなかったため、津波など考えもしなかった。こうした出来事や一瞬の感情は、そのうち風化されてしまうだろう。それは、2011年3月11日に起きた震災も同じだと思う。だからこそ、多くの被災者の方が、本当に起こり得るリスクを想像するために、そして震災の記憶を風化させないために、私たちに震災を語り続けているのだろう。
 震災を乗り越えようとする東北が好きだ。東北の人たちと交流を続けていたい。そして、そこであった震災というリスクを、忘れないようにずっと思い出していたい。震災を忘れないために、私には何ができるのかを深く考えて、時には行動を起こしていきたい。そうすれば、震災を風化させたくない、という被災者の意思に沿えるような気がするのだ。


【2017/03/26 19:55】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
法学部政治学科3年 
宮代綾子

 はじめに、お会いした方々とfrontiersのみなさんをはじめとするツアーの参加者に感謝の意を示したい。東北と立教大学の想いの通ったつながりに加わって、人と人との交流の暖かさが身に染みて分かった。そして、このつながりの一員となった以上、釘子さんの言葉を借りれば、「使命」を果たさなければならないと感じている。これから、唐桑ツアーを通して伝えたいと思ったことを書き連ねたい。
 陸前高田に到着し、感じたのは不自然さだった。その不自然さは、第一にイメージとの乖離から生まれたのだと思う。道沿いにある飲食店やイオンスーパーと、点々と残された震災遺構、黒いビニール袋(防波堤が完成するまで道路を守るものだそうだ)、学校の校庭にいまだにある仮設住宅、一面の盛土と工事用車両。想像していたよりも復興が進んでいない。全てを失った中心部では、ようやく図書館と市役所の骨組みが作られているところだった。それらより海に近いところは、もう家や商店は建てないのだという。第二の不自然さの原因は防波堤である。防波堤の高さは約12m。東日本大震災レベルの津波を抑えることはできない。何か、根本的な解決ではないように思ってしまった。そして、この違和感は津波の話や映像を通してより強くなった。津波は絶望的なものである。数秒で町を、全てを飲み込んでいく。人間に制御できるものではないと私は思う。制御はできないが、何年かに一度は津波が来ることから目を逸らさず、その日が来る日に備えなければならない。どう備えるかが問題となるが、防波堤というハードだけでは足りないのではないか。米沢さんによれば、あの日、人々は津波が来るとは思っていなかった。地震が来たら津波が来ると後世に伝え、教育していくことが、生き残った者や話を聞いた者の「使命」なのだと思う。
 メディアでは、「絆」や「奇跡」といった素晴らしい言葉がクローズアップされる。しかし、このツアーでは震災における負の側面にも向き合うことができた。震災直後、真っ先に被災地を訪れたのは泥棒だという事実。車イスの人が津波から逃げている場面で、逃げた人は助かり、最後まで救助を続けた人は波にのまれたという映像が語る真実。倫理観も生と死もごちゃごちゃになった被災地で、生き抜いた人々は強い。釘子さんは世の中にNoとはっきり言える人で、信念を持っていた。でも、強くいられなかった人もいる。国昭さんは震災後意気消沈していたが、学生ボランティアに支えられて立ち直ることができたという。国昭さんは前向きにすべてを受け入れることができる人だ。私は今回のツアーで3日に渡り国昭さんと言葉を交わしたことで、帰る場所ができたと思えた。米沢さんは来年建て始める店と今後の陸前高田について語ってくださった。三浦さんは震災で農作物の種類を変えたそうだが、前向きにとらえていることが印象に残った。
 陸前高田も唐桑も、自然に囲まれ、料理が美味しく、優しい人々がいる魅力的な場所だった。「もっと早く来れば良かった」、「家族を連れて行きたい」と思ったほどである。(私の実家がある埼玉県は海なし県であるため新鮮な魚介類を堪能できたということは立派な自慢になるし、実際家族にうらやましがられた)今、唐桑では地域の若者と移住者が協力してまちづくりを行っていると聞いた。ふるさととしての唐桑と、生まれ育った土地ではないからこそ見つけられる唐桑らしさが融合することで今までにない化学変化が起こるのではないかと思う。
唐桑ツアーに参加して、唐桑と陸前高田の現在を知り、何人もの人生の先輩に出会うことができた。恩返しのために、この経験をより多くの人に伝えていきたいと思う。できれば、誰かを連れて、何年後かに再び陸前高田と唐桑を訪れたい。
最後に、「私の街には災害が起きない」と思っている方へ。あなたが住む場所で過去にどんな災害があったか知っていますか。緊急時にどこに避難するか、知っていますか。避難所が本当に安全か確かめたことはありますか。その避難所にはどんな備蓄が用意されていますか。――釘子さんが私たちに投げかけた質問です。これらの質問ではっとした方は調べてみましょう。私もこれから始めます。今日から始められることもあります。水と飴、常備薬を入れた避難袋を用意し、寝床の近くに靴を用意すること。いつ来るか分からないなら、今日来てもおかしくはない。自分の命を守るために、そして、家族の命を守るために、できる限りの準備をしていかなければならないと思いませんか。



【2017/03/26 19:54】 | 活動報告
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思考と行動
社会学部現代文化学科3年
中村俊輝

今回で唐桑ツアーへの参加は最後になる。唐桑ツアーの企画・運営を行うFrontiersは3年の秋に引退することとなっている。私も今回で最後だからという気概で参加した。今回ツアーに参加する際の目的は「唐桑ツアーを楽しむ」ことであった。というのも、運営をする学生は常にベストな選択を取り、初参加の人に多くの気づきを与えることが求められる。そのため常に自分が手本となるように行動しようと振る舞ってきた。ただそれはとても疲れることだった。正直、来ないという選択もありえた。しかし私にとってはこれが最後のチャンスだった。最後に楽しい思い出で唐桑ツアーを終わろう。そう思って唐桑ツアーに臨んだ。

初日の夕、私はこれから2日お世話になるお宿のつなかんのブロック塀に腰掛けていた。私は後輩である珠村くんに「全然楽しくない」と呟いた。それは、御崎神社でのことが原因だった。神主さんの話を聞きに行ったが聞きたいことが定まっておらず、共有もできていなかった。そのため自分の思うように話を進められない。もどかしさや苛立ちが出てくる。次に何をしたらいいのか決められない。なにをしたいのか、目的はなにか、と引率の小倉先生・田北先生に問いただされる。ただ先生に敷いてもらった道を進むのも癪だった。どうしたらよいのかと考えるとなにもかもが面倒臭くなった。あと3日いい子でいられれば東京に帰れるその思いだけだった。
夜は地元のまちづくりサークル「からくわ丸」をお呼びした。からくわ丸のメンバーの自己紹介が終わると私は真っ先に総大将である立花淳一さん(じゅんさん)のもとへ向かった。団体の規模は違えど、中心人物として私と繋がる部分があるのではないか。現状を打破できるヒントがもらえるかもしれない。近づいたのはそういう理由だった。だがその期待は半分くらい外れていた。外れていた部分は物事に取り組む際の姿勢だった。じゅんさんは、からくわ丸のようなまちづくりサークルは難しいことではあるが細く長く続けていくことを目指してやっていかなければいけない、と語っていた。からくわ丸のメンバーは皆仕事をしながら夜に会議を行っている。すなわち本業ではない。そのため楽しまないと続けていくことができない。楽しさを優先させて物事を決めていると語っていた(間違っていたらごめんなさい)。この尺度の存在は私もわかっていた。だからこそ楽しもうと思って今回のツアーに臨んだ。ただ上手くやらなきゃいけないと考えるうちに楽しむことやみんなが楽しめるようにするにはどうしたらよいのかという考えが消えていた。
からくわ丸と別れたあと、掘りごたつをツアーに参加したメンバーと囲んでいた。俺が初めて唐桑ツアーに参加した2014年の9月のときはああだったと昔話をしていた。初参加だったが予定に組み込まれていなかった行動を先生にお願いして入れてもらったことがあった。夜の話の中でそのことが強く思い起こされた。最初に参加したときのほうが明確な意図を持って行動していたし、柔軟な発想ができていたんじゃないかと思った。やっぱり悔いを残して東京には帰りたくない。夕方のとき考えていたこととは真逆の気持ちで深夜の2時半に床についた。

2日目は陸前高田市で梱包資材や菓子材料の販売をする米沢商会代表の米沢祐一さんにお会いした。昨年私は米沢さんに授業でライフストーリー・インタビューを行った。その縁もありご自宅に泊まらせていただくなど深い付き合いをさせていただいている。正式に保存が決まった米沢商会ビルに登り、3月11日当日の動きを再現してもらい津波の恐ろしさや新しい町について語りをしていただいた。唐桑ツアーで米沢さんの語りを伺うのは7回目だが、私が初めて参加した2回目の語りよりも明らかに話に厚みが出ている。今までに100回以上語りをしたと仰っていた。私が初めて参加してから2年近く経ち記憶としては薄れていくのが世の常である。しかし話すことで思い出し個人と繋がれるという米沢さんの言葉通り、語りの対象が受け手だけでなく亡くなった家族や町の人々にも広がっているようだった。それだけに米沢商会ビルで語りを続けることの重要性がより一層感じられた。
話を聞いているうちに、自分が米沢さんと他のメンバーを結びつけることが今までできていなかったことに気づいた。米沢さんの語りを聞いてもらうことは米沢さんを知る上で入口となる一番大切なことである。ただ学生と米沢さんが1対1で話せる場があったほうが語りの場で現れにくい米沢さんの人柄をより理解してもらえるのではないだろうか。そのことに悩んでから米沢さんの話が頭に入らなくなるほど悩んだ。このまま帰ってしまったら後悔すると感じ米沢さんや小倉先生と相談した。そこでお店に戻り少人数で話をすることが決まった。延長戦をできることが決まったことで一安心つけた。
しかし次の瞬間には、この延長戦に参加したいという人は出てくるのかという不安に苛まれた。ただ自分が全体を振り回しているだけなのではないか。米沢さんの話を聞きに行きたいと手を上げてくれる人がいるのか聞くのが途端に怖くなった。タピックでみんなを集めて意を決して自分の想いを伝えた。すると初参加者から4人手が挙がった。経験者が手を挙げなかったのは遠慮もあったのだろう。とにかく行きたいという意思を示してくれたのが嬉しかった。初参加のときはみんなの合意を得ずに私の想いだけで動かせてもらった。そのため追加で動いた部分に関しては行く目的の共有がしっかりできていなかった。今回はその共有がしっかりとできた。5人を乗せた車は米沢さんのお店がある高田大隅つどいの丘商店街へと向かった。米沢さんとの話は他愛のないものだった。学生の住んでいる場所や米沢さんの娘さんの話など私が橋渡し役となって話すことができた。このことでみんなが唐桑ツアーとして唐桑・陸前高田に行く意味や今年度のコンセプトである「ボランティアらしくないからできること」を感じることができたのではないかと思う。唐桑ツアーでできた関係性を私自身も大事にしてみんなを連れて会いに行こうと思う。

1年生の9月に先輩に連れられて唐桑ツアーに行った。そこから2年経て連れていく側となった。これからもどのようなかたちであれ、唐桑・陸前高田に通う人間が絶えないでいてほしい。唐桑ツアーはその1つの形態である。今回も多くの人々の協力のもとで運営されてきた。今秋から出張される小倉先生には2013年5月の初回から10回運転手として参加していただいた。また唐桑ツアーのコンセプト形成にも深く関わった。小倉先生が関わらない唐桑ツアーは次回が初めてである。先生が日本にいない間にどのような変遷を辿っていくのかというのも興味深い。
今回のツアーは事前の準備不足だった。ただ期間中に今できる最善の動きは何なのかを意識して行動をとるようになれた。準備していなかっただけ融通が利いたのだと思う。今まで唐桑ツアーのスケジュールの緩さを良いと思ってこなかった。いろんな場所に連れて行ってあげることやそれが決まっていることで安心感を与えられると思っていたからだ。しかし事前に決まっていなくとも全体に向けて動きや目的の周知ができれば問題ないことがようやくわかった。そのことは次回以降大切にしていってほしい。また行動に移すか悩むものは可能な限り行動に移してほしい。あれもやろうこれもやろうでは、行動の目的の周知が疎かになってしまいがちになるが消極的な動きは取らないでもらいたい。思考と行動が両立すれば、最善の動きが導きだされると考える。と言ったうえでこのことは聞き流してもらえればと思う。みんなにお願いしたいのは「唐桑ツアーを楽し」んでもらいたいこのことだけです。



【2017/03/26 19:52】 | 活動報告
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2016年度 8月唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科1年 
冨田美月

 私は今回、初めてこの唐桑ツアーに参加した。私の所属するサークルであるFrontiersの先輩方からは、この唐桑ツアーでこれまでに出会ってきた方々や土地の話をよく聞いていた。その、決して飾らない語り方でありながらも、妙に魅力を感じさせるお話と、ツアーでの話をする先輩方の顔が本当に楽しそうだったことから、今回のツアーに参加しようと決めた。
 実際、先輩方に先導していただきながら街を巡ったり、この「唐桑ツアー」で過去につながりを持った方々に会いに行ったりする体験は、私にとってかけがえのない経験となった。  「唐桑ツアー」としてでも、今回初めてお会いした方もおり、初めてでありながら、とても暖かいおもてなしをしてくださったことに感激したのだが、特に印象的だったのは、これまでに先輩方が出会い、つながりを持った方々や場所との出会いだった。例えば、「おかえりー!」の一言であっという間に「第二の故郷」へと化してしまった、民宿「つなかん」とそのおかみである一代さん。初対面なのに、幼いころから自分のことを知られているような、不思議な居心地の良さに完全に飲み込まれてしまった。最終日に宿を出るときにも、「行ってきまーす」と、なんとなくまたここに帰ってくるのだろうなという感覚がした。あの僅かな日数で、あんなにも心を開かせてしまう空間とは一体何者なのだろうか。その不思議が解けるまでは、少なくとも私はあの場所へ足を運ぶのだろうと思った。
 また、東日本大震災について知るということでは、震災遺構としてご自身のビルを残されている米沢さんとの出会いも印象に残っている。今回、震災当時のことを、実際にビルをのぼりながら詳細にお話ししていただいた。「イメージしながら聞いてほしい」とのお言葉に、本気で、お話を聞きながら想像した。お話を聞いた日は台風の影響で風が強く、ちょうど津波が押し寄せた時も風圧がすごかったと聞いていたので想像をかきたたせ、すべてお話を聞き終わったときにはひどく疲れてしまった。しかし、実際に経験された米沢さんの方は、その話をするのにどれほどのエネルギーがいるのだろうかと想像して、頭が痛くなった。それでも、こうして私たちにお話しして下さることに、感謝という一言では表しきれない想いを抱いた。そして、ビルの屋上から見える、周りの盛り土だらけの景色を見て米沢さんは、「3年後にはあそこに中心街ができます。新しい街ができていくのを一緒に楽しみにしていてほしい」と仰った。それを聞き、「ああ、私たちもその楽しみを共有していいんだ」と嬉しくなった。どうしても、震災を経験していない私は、どう寄り添っても部外者で、想いを共有することは、こちらがしたくてもできないものだと思っていたからだ。そのあとに、数人で米沢さんの今のお店のバックヤードにお邪魔して、他愛のない会話をしていたのだが、こうして、顔の見える繋がりができたことが本当に嬉しかった。別れ際、米沢さんが何度も、「また遊びに来てね、本当に」と言ってくださり、「また絶対に来ます」と答えた。これからもこのつながりは絶やさず続けていこうと決心した。
 そもそも、このFrontiersに入ることにした決め手の一つが、この団体が、いわゆる「ボランティア活動」をしているわけではなく、こうした、東北の方との顔の見える付き合いを大切にしているところだということだった。先輩が築いてきたつながりの仲間に入れていただけて、本当に嬉しかった。第二の故郷となったこの地には、また「帰って」、今回出会った方々に再会したいと思う。



【2017/03/26 19:50】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科1年
柴田 麻友

 今回の唐桑ツアーのコンセプトは、「ボランティアらしくないからできること」である。支援をしに行くのではなく、「会いに行く」。東日本大震災からの五年間、たくさんの人と出会い交流を重ねてきたこのツアーでかけられた言葉、「来てくれるだけでいい」。その言葉から今回の唐桑ツアーのコンセプトが導かれた。
今回初めて唐桑ツアーに参加し、実際に被災地を訪ねてみて、「来てくれるだけでいい」、「また会いに来てほしい」と現地の人と会うたびに明るく声をかけられて私はとても驚いた。被災地に行くまでは、東日本大震災から五年もたったとはいえ、当時の状況を現地の人に質問するのには少し身構えた。当時の状況を話すことでつらい記憶を思い出させてしまうだろうと、後ろ向きな考えがあったからだ。しかし、実際は違った。対面でお話するうちに、東日本大震災に対し私が想像していた以上のこと、新しい知見がたくさん得られた。現地の人に会いに行き、ただ、会話を交わす。このような活動もわるくないなと感じた。
 ツアー二日目、八月十七日は津波を実際に経験した方とお話ができた。昼頃に岩手県陸前高田市を訪ねて、米沢祐一さんに会いに行った。米沢さんが当時避難した場所の米沢ビルで、震災が起こる前から救助されるまでを時系列に沿って、まるで私たちがそこにいるかのように語ってくれた。地震発生日は誰にでもある、なにげない日常であったこと。当時は津波という言葉が身近ではなかったこと。津波の危険性をぎりぎりまで、どこか他人事のように思っていたこと。目の前で家が流され波が押し寄せてくることへの恐怖。体験者の口から聞くと、やはり衝撃的なものであった。米沢さんは毎回、唐桑ツアーでこの場所を訪れるたびに、このお話をしてくださるそうだ。話すということは当時の状況を思い出さなければならなく、つらい思いをしてしまうのではないだろうか。しかし、米沢さんは震災後自ら語る道を選んだという。今では、話すことが嬉しいのだという。なぜだろうか。それは、当時の状況を話すことで、誰かに体験したことを伝えることができるし、なにより自分自身もその体験を忘れることなく覚えていられるからだそうだ。東日本大震災から五年がたち、未だにあたりは土まみれで工事現場ばかりだが、それでも着実に復興がすすみ震災の面影が消えていく。米沢さんは最後に私たちに、今このときの風景を覚えていてほしい、そして一年後、いや三年後でもいいからまた来てこの風景を思い出してほしい、と声をかけた。
私は家に帰ったら、できるだけ多くの写真を友人に見せたい、またその写真について話したいと思った。私ができることは、今回の唐桑ツアーで見たこと、知ったことをできるだけ多く、周りにいる人に伝えていくということだろう。


【2017/03/26 19:49】 | 活動報告
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