立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
「行きたい」し「行くべき」な唐桑ツアー
社会学部現代文化学科1年 
冨田美月

 今回の唐桑ツアーで、東北に訪れるのはツアーとしては2度目、個人的には7度目となる。特に前回のツアーから今回までの間に、陸前高田にはよくお邪魔したため、だいぶ現地での土地勘もついてきて、自分にとってより馴染みのある場所になってきた。
 なぜ、自分がこのツアーに参加しているのか、前回のツアー以後、今回のツアー中も含めて自問していた。このツアーのコンセプトは、「ボランティアらしくないからできること」だ。よく、友人や周りの人に何のサークルに入っているかと問われて「ボランティアサークル」と答える自分だが、正直ボランティアをしているという感覚は全くなかった。そもそも「ボランティア」という言葉の解釈は様々あるのだと思うが、私の感覚では、何かを支援したり与えたりしている感覚はなく、むしろ得るものばかりの活動なのだ。だから、この「ボランティアらしくないからできること」というコンセプトのもとで進められる唐桑ツアーが私にはとてもしっくりくる。「ボランティア」に代わるなにかいい言葉はないものか、と思うがまだその答えは出ていない。
 今回でお会いするのは4度目となる、陸前高田の米沢祐一さんは、そこを訪れる人々に対して「何もないところによく来てくれるな、と思う」と仰っていた。それに対して、私はつい「そんなことありません」と即答した。そこに、なぜここに来続けようと思うかのヒントがあったように思う。「確かに、津波で街そのものは流されてなくなってしまったかもしれないけれど、私がここに来るたびに、この街の人々の温かさを様々なところで感じていて、それに触れるたびに「またこの人に会いたいな」という想いになるんです。そういう人や街の温かさがここにはあるし、おいしいご飯だってたくさんある。私は、ここに来たくて来ているんです。」そんなふうに話したと思う。はじめは「支援」のつもりでいたが、このツアーを通して自分の中の根本から、「ここにまた来たい」という想いが生まれた。私の言葉のあと「それ(来たいから来るということ)はいいと思う。そう言ってもらえるとうれしい」と米沢さんが仰ったのを聞き、そんな自分の想いがまたこちらの方にとってもいいことなのかもしれないと思い、それがまた嬉しかった。
 二日目にお会いした、プロの語り部をされている釘子明さんからは、初めて聞く避難所でのエピソードや、災害に備えるべきことなど、かなり具体的な話を詳細に話してくださった。「次に起こるかもしれない災害に備えることが、東日本大震災で亡くなった方への供養にもなる」とのお言葉を聞いて、もう一つ、ここに来続ける理由を見つけたように思う。
 この震災を「忘れてはならない」とはよく聞くし、私もそう思う。しかしこれは、震災を経験した方が言うのと、経験していない私のような立場から言うのとでは少し意味が違うのかもしれない、とこの時思った。言葉の重みの違いということではない(確かにそれもあるかもしれないが)。こちらでお会いする方々が口を揃えて必ず仰るのが、「私たちが経験した苦しみを同じようにあなたに経験してほしくない、絶対に」という言葉である。私はこの言葉を言われてから、東京に戻ってきてもたびたび小さな地震が起こると、その言葉を仰った方の、その言葉を仰っている時の目が頭をよぎる。そして、小さな地震であっても安心せず、「もし今これが大きな地震だったら自分は生きていられただろうか」と考えるようになった。これは、東北に顔の見えるつながりを持ったからこそ感じられるようになったと思っている。そうは言っても、まだまだ「忘れて」しまう瞬間が私にはあるし、知らないこともたくさんある。だから、自分の気持ちの問題だけでなく、ここに行き続けるべき理由があると感じた。このツアーは、本当に様々なことを自分に気づかせてくれる、意義の大きい活動である。これからも、ずっと続けていくべきだし、自分の意志としても、続けていきたい。

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【2017/03/26 20:02】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科1年
木田ちひろ

 2011年3月11日、私はテレビのニュースで震災による東北の被害を知ったが、津波や崩壊した建物を見て、現実に起こっていることとは信じられなかった。被災の状況をどこか遠いところで起こっているものだと感じていたのだ。この5年間、私が出来たことといえば、テレビなどのニュースから情報を得ることや、募金活動に参加することぐらいしかなかった。しかし今回のツアーに参加して、被災地を訪れたことでそこには人が普通に住んでいて、普通に建物が存在していたということを改めて実感した。それは当然のことであるが、初めて東北を訪れた私にとってはとても衝撃的であった。そして、今私たちがやるべきことは何か、今後どのように東北と関わっていくべきか考えさせられた。同時に、「また東北に来たい。」と強く思った。
 最近、あまり震災の復興状況をテレビで放送していなかったので、私はどれくらいの新しい建物が建っているのかと思っていた。実際、私が想像していたよりもあまり復興は進んでおらず、訪れた岩手県陸前高田市では、郊外ではないのにも関わらず、ただの土が広がっていて驚いた。初日は、当時も今も商店を経営している米沢祐一さんの話を伺った。米沢さんは震災が発生する前から、救助されるまでの経験を丁寧に私たちに話してくださった。震災前は平凡な幸せな生活であったこと、大きな津波が襲ってくるとは夢にも思っていなかったこと、津波によって瞬く間に町が泥の海に覆われること、話してくださるすべてが私にとって衝撃的であった。私たちは、米沢さんが実際に避難した建物でお話を伺ったが、私たちのひざ下までしかないような海水が、10メートル以上にもなって襲ってきたという。想像するととても恐ろしく感じた。東日本大震災では、津波による被害が深刻であったということは知っていたが、実際に米沢さんが避難した屋上まで登って、津波が屋上ぎりぎりまで到達したということを知り、どれほどの津波だったかを自分の目で見て感じた。米沢さんは、「今日自分で見たこと、感じたことを、東京に帰って思い出してほしい。そしてまた3か月後、6か月後、1年後にまた同じ場所に訪れてほしい。」とおっしゃっていた。最初、私が現地でできることはどんなことなのかを探っていたが、今回のツアーで見たこと、知ったことを東京の友人に伝えたいと強く思った。
 私の周りに、まだ被災地に行ったことがないという人がたくさんいる中で、今回のツアーに参加できたことは貴重な体験だと思う。ここで見たこと、聞いたこと、知ったことを自分の中で完結させるのではなく、家族、友人に一人でも多くの人に伝えたいと思う。東京で私たちが直接的に彼らの復興を支援するのは難しい。しかし、唐桑ツアーで見て感じたことを自分の中で学びを深めて、更に成長すること、それが結果的に東北のために役立つことができたらいいと思う。


【2017/03/26 20:00】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告
社会学部現代文化学科2年
殿塚綾子

 私が今回唐桑ツアーに参加したのは、もう一度会いたい人たちがいたからだ。
 私は夏と秋の2度、社会学部の授業で唐桑にフィールドワークに行っていた。3度目の唐桑だったことになる。唐桑には何度も行きたくなるような魅力がたくさんある。気候、食、人などがそうだ。
 年末の唐桑は東北らしくものすごく寒かったが、雪は降っておらず風が冷たかった。宮城県北部から突き出た半島である唐桑は、風通しが良く雪雲がとどまらないかららしい。三日目に、全員で人々の信仰を集める早馬神社の本殿がある早馬山に登った。登っている最中に見渡せた太平洋と半島の内湾の冬の海には牡蠣養殖のいかだが並び、美しかった。
 また景勝地である「折石」を見に行った時は、自然のパワーに圧倒された。折石は唐桑半島の先端、巨釜(おがま)半造から見える、海に立つ巨大な石柱のことだ。あたりは岩場になっており、折石以外の巨石や足元の崖に波が激しく打ち付けていた。大きくしぶきがたった瞬間をカメラに収めようと全員が何度もシャッターを切った。私たちしかいないような静かな場所だったが、私はとても好きだったし他の人でも感動できるものだと思った。
 私たちが宿泊した民宿「つなかん」は牡蠣養殖業を営んでいる。毎日の夜ご飯には牡蠣をつかった料理がたっぷり出た。加えて牡蠣に並ぶ唐桑の養殖業であるホタテや、ホヤもこれでもかと並んだ。唐桑で食べるたんぱく質の9割は海産物だと思う。しかもとびきり新鮮だ。一度つなかんで食事をしてしまうと、東京の時間のたった小さな牡蠣を見るたびにここを思い出してしまう。最終日には少しだけ牡蠣剥きの様子も見学させていただいた。山のように積まれた牡蠣(私たちにはどこが牡蠣になっているのかわからないが)から正確に口にナイフを差し入れ全く傷つけずに一瞬で身を取り出す手際の良さは感動した。
 最後に、私が最も唐桑の魅力だと思うのが人の良さだ。私が会いたかったのは、過去二度お会いしたことのある唐桑唯一の専業野菜農家・Mさんだ。Mさんのもとには全員でお邪魔し、家にあげてもらってお話をうかがった。Mさんはお話を聞かせてくれただけでなく、移動の車にも同乗させてくれたり笑わせたりしてくれた。つなかんの看板女将であるいちよさんも、お手伝いのHさんもそうだ。喫茶店ジジのオーナー夫妻やユースホステルのオーナーやスタッフもそうだ。唐桑の人々はとにかく寛容で、受け入れてくれるだけでなく歓迎してくれ、そして人懐っこい。どんな人見知りでも心を許してしまう安心感が、みんな癖になってしまうのだと思う。間違いなく、私もその一人だ。行くたびに新たな一面が見えたり知らない人と知り合えたりする土地に、もう一度行けてよかった。同時に、また行きたいと思う。唐桑ツアー運営スタッフ、現地の方々ありがとうございました。


【2017/03/26 19:59】 | 活動報告
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2016年12月第11回唐桑ツアー報告書
経済学部経済学科 2年
船田 駿介

 私は今回のツアーは、3回目の参加となった。3回目は正直、今までで1番苦労が多かった。上の代のツアー運営者がいなくなり、自分たちがやっていかなくてはいけないというのを肌で感じた。そういう運営面では、かなりしんどいものがあった。どうしたら心からそういったつらさのしがらみから解放されるかばかり考えていた。逆に、そんな運営面でのつらさを唐桑で出会った人の言葉で癒されている自分がいた。運営という苦労を現地で癒すそんなツアーだった。だから、唐桑ツアーのいつもの楽しさはなかった。最初にこんなにもネガティブな発言をしてしまったが、これが正直な私の思いであり、よかったことばかり書いてもそれは自分に嘘をつくことになってしまうので、その点は大目に見てほしい。
 以下、現地での私の感じたことである。初日、陸前高田の語り部米沢さんのお話をビルの上で聞いた。相変らず陸前高田の夕方は寒かった。この寒さは3回程度では慣れないです笑。山側には、ショッピングモールのマイヤと図書館が建設され始めていた。やっと、まちづくりがスタートしたのだと実感した。その晩、唐桑町のカエル塾にて国昭さんと再会した。私は、国昭さんの目的を持ってくるなという言葉に救われた。癒しを感じた。
2日目、防災の観点から多くの話をしてくださる釘子さんの講演を聞いた。唐桑ツアーでは、「来てくれるだけでいい」と言ってくださる方ばかりなのに対し、釘子さんは防災意識を持つことを熱心に伝えてくださる方で、唐桑ツアー史上いい意味で異質な方だった。その異質さに、私は少し戸惑ったが、普段の唐桑ツアーでは聞けない多くのことが聞けた気がする。Frontiersは、ジョイスタディプロジェクトという活動で、防災のことを多く扱っている。釘子さんのように、防災を一般の人に伝えるという作業を、私はジョイスタディプロジェクトの中でも活かして行けるのではないか、やっていきたいと感じた。早速、2017年の春休み中に、防災と花見というイベントで活かしたい。防災企画をFrontiers内で考えるのも面白いかもしれない。
3日目、農家のMさんに会った。とても、唐桑らしい人だと思った。私にとって、唐桑らしい人とは、外部から来た人間をスッと受け入れ、ノリが良く、対等にお話をしてくれる、そして、私を癒してくれるような人のことだ。そんな、Mさんの話を聞き、農業という私の中で無知であった分野を教えてくれたことに、純粋に興味を持つ自分がいた。Mさんの畑では、子どもたちに農業を体験させるという活動を行っている。唐桑ツアーでも、1日農業を体験みたいなことをしても面白いと思うし、もっとMさんとの距離を縮めたいとも思った。
私は今、ツアーに義務感で行っているところが間違いなくある。ツアーが無かったら、正直もっと別の三陸地域を見たり、熊本へ行ったり、山古志村へ行ってみたいという思いもあるから、そっちへ足を運びたいとも思う。ただ、1つ言えるのは、唐桑ツアーでなくても、友達と唐桑、陸前高田に観光で行くのはめちゃくちゃ楽しいということ。唐桑ツアーでその楽しさを味わうことができたら、それは私たちにとっても、現地の方にとっても最高なことなのかもしれない。それが私にとっての、最高のツアー運営だ。私はツアー運営を行うチャンスはあと1回あるかないかだと思う。その1回をそんな唐桑ツアーに近づけられたらなと思う。


【2017/03/26 19:58】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部社会学科1年
深井吾朗

 私は今回初めて唐桑ツアーに参加した。唐桑はおろか、東北にすら行ったことがなかった私は、このツアーに参加することを楽しみにしていた。唐桑ツアーに大きな期待を込める一方で、震災から五年という節目を経過したこの時期になって初めて東北を訪れるということに対して、いまさら東北を訪れても遅いのではないかという不安もあった。期待と不安の入り交じった気持ちを抱きながら、東北へ出発した。
 一日目。レンタカーを待つ間に立ち寄った気仙沼駅前にある観光案内所で、案内所の方が写真を交えながら震災前後の気仙沼の様子について語って下さった。少し立ち寄っただけの私たちにたくさんのことを語って下さる姿を見て、少しでも私たちに震災について知ってほしいという思いを感じとることができた。昼食を終えた後、陸前高田にある米沢祐一さんのビルを訪れた。米沢さんは、このビルの最も高い部分によじ登って、水しぶきを浴びながらも津波に流されるのを免れたそうだ。私もその場所に登らせていただいた。実際に登って、米沢さんの体験を想像してみた。最初に感じたのは寒さだった。分厚いコートを着ていても寒さで体が震えた。次に孤独感を感じた。辺り一面を海に囲まれ、誰一人周りにいない状況はとにかく怖かっただろう。体調を崩してしまい、米沢さんのお話を最初から聞くことはできなかったが、米沢さんは最後に「今のここからの景色を覚えて、復興が進んだ陸前高田の姿を見にまた来てほしい」とおっしゃられていた。土に覆われた景色はしっかりと目に焼き付けた。一歩でも復興が進んだ姿を見に、必ずまたこの場所を訪れたい。夜は馬場国昭さんに会うために、かえる塾を訪ねた。国昭さんは私たちのことを「震友」だと語って下さった。震災があったからこそ出会えた友であるという意味だ。私は震災をこのように前向きに捉える発想がなかったので、面白い考え方だと思った。
 二日目。語り部として活動されている、釘子明さんの講演を聞いた。実際に避難所の運営に携わった釘子さんだからこそ語れる、避難所での生活のお話は非常に貴重なもので、とても勉強になった。特に、子どもたちから助け合いの輪が広がっていったというお話が印象深かった。講演を聞いた後、釘子さんに陸前高田市内を案内していただいた。タピック45では、建物が震災当時のまま残されており、津波の脅威をまじまじと感じることができた。津波によってねじり切られた木々を見たとき、人間が巻き込まれたらひとたまりもないことがよく分かった。釘子さんと最後に訪れた場所には未だに瓦礫の一部が残されており、震災の爪痕を見ることができた。釘子さんは、おそらくご遺体がまだ土の中にいくつも眠っているとおっしゃられた。震災からもう五年経ったのではなく、まだ五年しか経っていないのだと感じた。
 三日目。唐桑で専業農家をされている、Mさんにお会いした。Mさんのご自宅には津波で浸水した痕が残されていた。私たちはMさんの農場やプライベートビーチを見せていただいた。唐桑の長閑な風景を見て私は、自然は時には我々を襲うが、自然は愛すべきものであり、共存していく必要のあるものであると感じた。Mさんのお話を聞いていると、Mさんの唐桑に対する愛がひしひしと伝わってきた。この日は体調不良のため、昼食前に帰宅した。また機会があれば、Mさんに唐桑を案内していただきたい。
 私は今回の唐桑ツアーを通じて、震災から五年経ったからいまさら行っても遅いのではなく、五年たったからこそ行く意義があるのだと学んだ。テレビや新聞で震災のことが分かったつもりでいたが、やはりそれは間違いであった。実際に行ったからこそ学べたことは本当にたくさんあった。また来てほしいと願うたくさんの人達の思いを受けて、私は必ずまた東北を訪れたい。


【2017/03/26 19:57】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科2年
珠村 智

 被災地を好きになることが、復興支援ボランティアを続ける動力源ではないだろうか。私はFrontiersの活動を通して東北を好きになることができた。今回のツアーでは唐桑半島にある早馬山や巨釜に初めて行くことができた。壮大な光景は、まさに景勝地という言葉がふさわしい。そんな、見たことのないすばらしい景色を、5回目の唐桑にしてようやく見ることができた。東北のことを、また一つ好きになった。
最近強く感じることがある。東日本大震災が多くの人の心、そして人生に強い影響を与えたということだ。それは現地にいる方々だけでなく、東京に住む私たちのような学生でさえもかなり影響を受けている。Bさんが使う「震友」という言葉が表すとおり、震災がきっかけとなった出会いがある。
Bさんには毎回のツアーで会いに行っていた。しかし8月に実施したツアーではBさんに会うことができなかった。がんの手術のため、仙台の病院に入院していたからである。その後退院なさったため、今回のツアーでは3日間通してお話しを聞くことができた。仮設住宅でお話を聞くなど、毎回貴重な経験をさせていただいている。
 少し不謹慎だが、私は震災を機に東北のことを大好きになった。震災がなければこんなにも東北に行くことはなかったし、Bさんのような方々と会うことはなかった。Bさんだけではなく、東北で出会う皆さんから学ぶことは本当に多い。そうしたものは東京でいつも通り生活していたら絶対に知ることがない。唐桑ツアーでは震災に関する話だけでなく、プライベートなことまで、いろいろな話をする。だからこそ東北を好きになれたと思う。
 ところで、今回のツアーでは、痛烈に感じたことがある。災害を含む、様々なリスクである。釘子明さんから避難所運営のお話しを聞いたことで、いかに震災後の生活が壮絶なものか、垣間見えた。震災発生後、多くの人が避難所に集まる。そこで生じる問題を私たちはよく知らない。多くの人が災害の起きたその一時点だけを見ていて、震災後に対する関心が足りないことを痛感した。私たちは、リスクを想定することができていない。想定するに足りる知識も持ち合わせていないと感じる。
 今回のツアーでは一部の参加者が体調を崩すなど、想像していなかった事態が起きた。自分も以前、唐桑に行った後に体調を崩したことがある。にもかかわらず、参加者の健康状態を配慮することができなかった。また、最終日の夜には地震が発生した。私は地震の発生に気づかず、いかにリスク管理ができていないかを気づかされた。地震発生時、私たちは海のすぐそばにいたため、地震だけでなく津波にも警戒しなければならなかったと、今は思う。当時は地震に気づいていなかったため、津波など考えもしなかった。こうした出来事や一瞬の感情は、そのうち風化されてしまうだろう。それは、2011年3月11日に起きた震災も同じだと思う。だからこそ、多くの被災者の方が、本当に起こり得るリスクを想像するために、そして震災の記憶を風化させないために、私たちに震災を語り続けているのだろう。
 震災を乗り越えようとする東北が好きだ。東北の人たちと交流を続けていたい。そして、そこであった震災というリスクを、忘れないようにずっと思い出していたい。震災を忘れないために、私には何ができるのかを深く考えて、時には行動を起こしていきたい。そうすれば、震災を風化させたくない、という被災者の意思に沿えるような気がするのだ。


【2017/03/26 19:55】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
法学部政治学科3年 
宮代綾子

 はじめに、お会いした方々とfrontiersのみなさんをはじめとするツアーの参加者に感謝の意を示したい。東北と立教大学の想いの通ったつながりに加わって、人と人との交流の暖かさが身に染みて分かった。そして、このつながりの一員となった以上、釘子さんの言葉を借りれば、「使命」を果たさなければならないと感じている。これから、唐桑ツアーを通して伝えたいと思ったことを書き連ねたい。
 陸前高田に到着し、感じたのは不自然さだった。その不自然さは、第一にイメージとの乖離から生まれたのだと思う。道沿いにある飲食店やイオンスーパーと、点々と残された震災遺構、黒いビニール袋(防波堤が完成するまで道路を守るものだそうだ)、学校の校庭にいまだにある仮設住宅、一面の盛土と工事用車両。想像していたよりも復興が進んでいない。全てを失った中心部では、ようやく図書館と市役所の骨組みが作られているところだった。それらより海に近いところは、もう家や商店は建てないのだという。第二の不自然さの原因は防波堤である。防波堤の高さは約12m。東日本大震災レベルの津波を抑えることはできない。何か、根本的な解決ではないように思ってしまった。そして、この違和感は津波の話や映像を通してより強くなった。津波は絶望的なものである。数秒で町を、全てを飲み込んでいく。人間に制御できるものではないと私は思う。制御はできないが、何年かに一度は津波が来ることから目を逸らさず、その日が来る日に備えなければならない。どう備えるかが問題となるが、防波堤というハードだけでは足りないのではないか。米沢さんによれば、あの日、人々は津波が来るとは思っていなかった。地震が来たら津波が来ると後世に伝え、教育していくことが、生き残った者や話を聞いた者の「使命」なのだと思う。
 メディアでは、「絆」や「奇跡」といった素晴らしい言葉がクローズアップされる。しかし、このツアーでは震災における負の側面にも向き合うことができた。震災直後、真っ先に被災地を訪れたのは泥棒だという事実。車イスの人が津波から逃げている場面で、逃げた人は助かり、最後まで救助を続けた人は波にのまれたという映像が語る真実。倫理観も生と死もごちゃごちゃになった被災地で、生き抜いた人々は強い。釘子さんは世の中にNoとはっきり言える人で、信念を持っていた。でも、強くいられなかった人もいる。国昭さんは震災後意気消沈していたが、学生ボランティアに支えられて立ち直ることができたという。国昭さんは前向きにすべてを受け入れることができる人だ。私は今回のツアーで3日に渡り国昭さんと言葉を交わしたことで、帰る場所ができたと思えた。米沢さんは来年建て始める店と今後の陸前高田について語ってくださった。三浦さんは震災で農作物の種類を変えたそうだが、前向きにとらえていることが印象に残った。
 陸前高田も唐桑も、自然に囲まれ、料理が美味しく、優しい人々がいる魅力的な場所だった。「もっと早く来れば良かった」、「家族を連れて行きたい」と思ったほどである。(私の実家がある埼玉県は海なし県であるため新鮮な魚介類を堪能できたということは立派な自慢になるし、実際家族にうらやましがられた)今、唐桑では地域の若者と移住者が協力してまちづくりを行っていると聞いた。ふるさととしての唐桑と、生まれ育った土地ではないからこそ見つけられる唐桑らしさが融合することで今までにない化学変化が起こるのではないかと思う。
唐桑ツアーに参加して、唐桑と陸前高田の現在を知り、何人もの人生の先輩に出会うことができた。恩返しのために、この経験をより多くの人に伝えていきたいと思う。できれば、誰かを連れて、何年後かに再び陸前高田と唐桑を訪れたい。
最後に、「私の街には災害が起きない」と思っている方へ。あなたが住む場所で過去にどんな災害があったか知っていますか。緊急時にどこに避難するか、知っていますか。避難所が本当に安全か確かめたことはありますか。その避難所にはどんな備蓄が用意されていますか。――釘子さんが私たちに投げかけた質問です。これらの質問ではっとした方は調べてみましょう。私もこれから始めます。今日から始められることもあります。水と飴、常備薬を入れた避難袋を用意し、寝床の近くに靴を用意すること。いつ来るか分からないなら、今日来てもおかしくはない。自分の命を守るために、そして、家族の命を守るために、できる限りの準備をしていかなければならないと思いませんか。



【2017/03/26 19:54】 | 活動報告
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思考と行動
社会学部現代文化学科3年
中村俊輝

今回で唐桑ツアーへの参加は最後になる。唐桑ツアーの企画・運営を行うFrontiersは3年の秋に引退することとなっている。私も今回で最後だからという気概で参加した。今回ツアーに参加する際の目的は「唐桑ツアーを楽しむ」ことであった。というのも、運営をする学生は常にベストな選択を取り、初参加の人に多くの気づきを与えることが求められる。そのため常に自分が手本となるように行動しようと振る舞ってきた。ただそれはとても疲れることだった。正直、来ないという選択もありえた。しかし私にとってはこれが最後のチャンスだった。最後に楽しい思い出で唐桑ツアーを終わろう。そう思って唐桑ツアーに臨んだ。

初日の夕、私はこれから2日お世話になるお宿のつなかんのブロック塀に腰掛けていた。私は後輩である珠村くんに「全然楽しくない」と呟いた。それは、御崎神社でのことが原因だった。神主さんの話を聞きに行ったが聞きたいことが定まっておらず、共有もできていなかった。そのため自分の思うように話を進められない。もどかしさや苛立ちが出てくる。次に何をしたらいいのか決められない。なにをしたいのか、目的はなにか、と引率の小倉先生・田北先生に問いただされる。ただ先生に敷いてもらった道を進むのも癪だった。どうしたらよいのかと考えるとなにもかもが面倒臭くなった。あと3日いい子でいられれば東京に帰れるその思いだけだった。
夜は地元のまちづくりサークル「からくわ丸」をお呼びした。からくわ丸のメンバーの自己紹介が終わると私は真っ先に総大将である立花淳一さん(じゅんさん)のもとへ向かった。団体の規模は違えど、中心人物として私と繋がる部分があるのではないか。現状を打破できるヒントがもらえるかもしれない。近づいたのはそういう理由だった。だがその期待は半分くらい外れていた。外れていた部分は物事に取り組む際の姿勢だった。じゅんさんは、からくわ丸のようなまちづくりサークルは難しいことではあるが細く長く続けていくことを目指してやっていかなければいけない、と語っていた。からくわ丸のメンバーは皆仕事をしながら夜に会議を行っている。すなわち本業ではない。そのため楽しまないと続けていくことができない。楽しさを優先させて物事を決めていると語っていた(間違っていたらごめんなさい)。この尺度の存在は私もわかっていた。だからこそ楽しもうと思って今回のツアーに臨んだ。ただ上手くやらなきゃいけないと考えるうちに楽しむことやみんなが楽しめるようにするにはどうしたらよいのかという考えが消えていた。
からくわ丸と別れたあと、掘りごたつをツアーに参加したメンバーと囲んでいた。俺が初めて唐桑ツアーに参加した2014年の9月のときはああだったと昔話をしていた。初参加だったが予定に組み込まれていなかった行動を先生にお願いして入れてもらったことがあった。夜の話の中でそのことが強く思い起こされた。最初に参加したときのほうが明確な意図を持って行動していたし、柔軟な発想ができていたんじゃないかと思った。やっぱり悔いを残して東京には帰りたくない。夕方のとき考えていたこととは真逆の気持ちで深夜の2時半に床についた。

2日目は陸前高田市で梱包資材や菓子材料の販売をする米沢商会代表の米沢祐一さんにお会いした。昨年私は米沢さんに授業でライフストーリー・インタビューを行った。その縁もありご自宅に泊まらせていただくなど深い付き合いをさせていただいている。正式に保存が決まった米沢商会ビルに登り、3月11日当日の動きを再現してもらい津波の恐ろしさや新しい町について語りをしていただいた。唐桑ツアーで米沢さんの語りを伺うのは7回目だが、私が初めて参加した2回目の語りよりも明らかに話に厚みが出ている。今までに100回以上語りをしたと仰っていた。私が初めて参加してから2年近く経ち記憶としては薄れていくのが世の常である。しかし話すことで思い出し個人と繋がれるという米沢さんの言葉通り、語りの対象が受け手だけでなく亡くなった家族や町の人々にも広がっているようだった。それだけに米沢商会ビルで語りを続けることの重要性がより一層感じられた。
話を聞いているうちに、自分が米沢さんと他のメンバーを結びつけることが今までできていなかったことに気づいた。米沢さんの語りを聞いてもらうことは米沢さんを知る上で入口となる一番大切なことである。ただ学生と米沢さんが1対1で話せる場があったほうが語りの場で現れにくい米沢さんの人柄をより理解してもらえるのではないだろうか。そのことに悩んでから米沢さんの話が頭に入らなくなるほど悩んだ。このまま帰ってしまったら後悔すると感じ米沢さんや小倉先生と相談した。そこでお店に戻り少人数で話をすることが決まった。延長戦をできることが決まったことで一安心つけた。
しかし次の瞬間には、この延長戦に参加したいという人は出てくるのかという不安に苛まれた。ただ自分が全体を振り回しているだけなのではないか。米沢さんの話を聞きに行きたいと手を上げてくれる人がいるのか聞くのが途端に怖くなった。タピックでみんなを集めて意を決して自分の想いを伝えた。すると初参加者から4人手が挙がった。経験者が手を挙げなかったのは遠慮もあったのだろう。とにかく行きたいという意思を示してくれたのが嬉しかった。初参加のときはみんなの合意を得ずに私の想いだけで動かせてもらった。そのため追加で動いた部分に関しては行く目的の共有がしっかりできていなかった。今回はその共有がしっかりとできた。5人を乗せた車は米沢さんのお店がある高田大隅つどいの丘商店街へと向かった。米沢さんとの話は他愛のないものだった。学生の住んでいる場所や米沢さんの娘さんの話など私が橋渡し役となって話すことができた。このことでみんなが唐桑ツアーとして唐桑・陸前高田に行く意味や今年度のコンセプトである「ボランティアらしくないからできること」を感じることができたのではないかと思う。唐桑ツアーでできた関係性を私自身も大事にしてみんなを連れて会いに行こうと思う。

1年生の9月に先輩に連れられて唐桑ツアーに行った。そこから2年経て連れていく側となった。これからもどのようなかたちであれ、唐桑・陸前高田に通う人間が絶えないでいてほしい。唐桑ツアーはその1つの形態である。今回も多くの人々の協力のもとで運営されてきた。今秋から出張される小倉先生には2013年5月の初回から10回運転手として参加していただいた。また唐桑ツアーのコンセプト形成にも深く関わった。小倉先生が関わらない唐桑ツアーは次回が初めてである。先生が日本にいない間にどのような変遷を辿っていくのかというのも興味深い。
今回のツアーは事前の準備不足だった。ただ期間中に今できる最善の動きは何なのかを意識して行動をとるようになれた。準備していなかっただけ融通が利いたのだと思う。今まで唐桑ツアーのスケジュールの緩さを良いと思ってこなかった。いろんな場所に連れて行ってあげることやそれが決まっていることで安心感を与えられると思っていたからだ。しかし事前に決まっていなくとも全体に向けて動きや目的の周知ができれば問題ないことがようやくわかった。そのことは次回以降大切にしていってほしい。また行動に移すか悩むものは可能な限り行動に移してほしい。あれもやろうこれもやろうでは、行動の目的の周知が疎かになってしまいがちになるが消極的な動きは取らないでもらいたい。思考と行動が両立すれば、最善の動きが導きだされると考える。と言ったうえでこのことは聞き流してもらえればと思う。みんなにお願いしたいのは「唐桑ツアーを楽し」んでもらいたいこのことだけです。



【2017/03/26 19:52】 | 活動報告
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2016年度 8月唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科1年 
冨田美月

 私は今回、初めてこの唐桑ツアーに参加した。私の所属するサークルであるFrontiersの先輩方からは、この唐桑ツアーでこれまでに出会ってきた方々や土地の話をよく聞いていた。その、決して飾らない語り方でありながらも、妙に魅力を感じさせるお話と、ツアーでの話をする先輩方の顔が本当に楽しそうだったことから、今回のツアーに参加しようと決めた。
 実際、先輩方に先導していただきながら街を巡ったり、この「唐桑ツアー」で過去につながりを持った方々に会いに行ったりする体験は、私にとってかけがえのない経験となった。  「唐桑ツアー」としてでも、今回初めてお会いした方もおり、初めてでありながら、とても暖かいおもてなしをしてくださったことに感激したのだが、特に印象的だったのは、これまでに先輩方が出会い、つながりを持った方々や場所との出会いだった。例えば、「おかえりー!」の一言であっという間に「第二の故郷」へと化してしまった、民宿「つなかん」とそのおかみである一代さん。初対面なのに、幼いころから自分のことを知られているような、不思議な居心地の良さに完全に飲み込まれてしまった。最終日に宿を出るときにも、「行ってきまーす」と、なんとなくまたここに帰ってくるのだろうなという感覚がした。あの僅かな日数で、あんなにも心を開かせてしまう空間とは一体何者なのだろうか。その不思議が解けるまでは、少なくとも私はあの場所へ足を運ぶのだろうと思った。
 また、東日本大震災について知るということでは、震災遺構としてご自身のビルを残されている米沢さんとの出会いも印象に残っている。今回、震災当時のことを、実際にビルをのぼりながら詳細にお話ししていただいた。「イメージしながら聞いてほしい」とのお言葉に、本気で、お話を聞きながら想像した。お話を聞いた日は台風の影響で風が強く、ちょうど津波が押し寄せた時も風圧がすごかったと聞いていたので想像をかきたたせ、すべてお話を聞き終わったときにはひどく疲れてしまった。しかし、実際に経験された米沢さんの方は、その話をするのにどれほどのエネルギーがいるのだろうかと想像して、頭が痛くなった。それでも、こうして私たちにお話しして下さることに、感謝という一言では表しきれない想いを抱いた。そして、ビルの屋上から見える、周りの盛り土だらけの景色を見て米沢さんは、「3年後にはあそこに中心街ができます。新しい街ができていくのを一緒に楽しみにしていてほしい」と仰った。それを聞き、「ああ、私たちもその楽しみを共有していいんだ」と嬉しくなった。どうしても、震災を経験していない私は、どう寄り添っても部外者で、想いを共有することは、こちらがしたくてもできないものだと思っていたからだ。そのあとに、数人で米沢さんの今のお店のバックヤードにお邪魔して、他愛のない会話をしていたのだが、こうして、顔の見える繋がりができたことが本当に嬉しかった。別れ際、米沢さんが何度も、「また遊びに来てね、本当に」と言ってくださり、「また絶対に来ます」と答えた。これからもこのつながりは絶やさず続けていこうと決心した。
 そもそも、このFrontiersに入ることにした決め手の一つが、この団体が、いわゆる「ボランティア活動」をしているわけではなく、こうした、東北の方との顔の見える付き合いを大切にしているところだということだった。先輩が築いてきたつながりの仲間に入れていただけて、本当に嬉しかった。第二の故郷となったこの地には、また「帰って」、今回出会った方々に再会したいと思う。



【2017/03/26 19:50】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科1年
柴田 麻友

 今回の唐桑ツアーのコンセプトは、「ボランティアらしくないからできること」である。支援をしに行くのではなく、「会いに行く」。東日本大震災からの五年間、たくさんの人と出会い交流を重ねてきたこのツアーでかけられた言葉、「来てくれるだけでいい」。その言葉から今回の唐桑ツアーのコンセプトが導かれた。
今回初めて唐桑ツアーに参加し、実際に被災地を訪ねてみて、「来てくれるだけでいい」、「また会いに来てほしい」と現地の人と会うたびに明るく声をかけられて私はとても驚いた。被災地に行くまでは、東日本大震災から五年もたったとはいえ、当時の状況を現地の人に質問するのには少し身構えた。当時の状況を話すことでつらい記憶を思い出させてしまうだろうと、後ろ向きな考えがあったからだ。しかし、実際は違った。対面でお話するうちに、東日本大震災に対し私が想像していた以上のこと、新しい知見がたくさん得られた。現地の人に会いに行き、ただ、会話を交わす。このような活動もわるくないなと感じた。
 ツアー二日目、八月十七日は津波を実際に経験した方とお話ができた。昼頃に岩手県陸前高田市を訪ねて、米沢祐一さんに会いに行った。米沢さんが当時避難した場所の米沢ビルで、震災が起こる前から救助されるまでを時系列に沿って、まるで私たちがそこにいるかのように語ってくれた。地震発生日は誰にでもある、なにげない日常であったこと。当時は津波という言葉が身近ではなかったこと。津波の危険性をぎりぎりまで、どこか他人事のように思っていたこと。目の前で家が流され波が押し寄せてくることへの恐怖。体験者の口から聞くと、やはり衝撃的なものであった。米沢さんは毎回、唐桑ツアーでこの場所を訪れるたびに、このお話をしてくださるそうだ。話すということは当時の状況を思い出さなければならなく、つらい思いをしてしまうのではないだろうか。しかし、米沢さんは震災後自ら語る道を選んだという。今では、話すことが嬉しいのだという。なぜだろうか。それは、当時の状況を話すことで、誰かに体験したことを伝えることができるし、なにより自分自身もその体験を忘れることなく覚えていられるからだそうだ。東日本大震災から五年がたち、未だにあたりは土まみれで工事現場ばかりだが、それでも着実に復興がすすみ震災の面影が消えていく。米沢さんは最後に私たちに、今このときの風景を覚えていてほしい、そして一年後、いや三年後でもいいからまた来てこの風景を思い出してほしい、と声をかけた。
私は家に帰ったら、できるだけ多くの写真を友人に見せたい、またその写真について話したいと思った。私ができることは、今回の唐桑ツアーで見たこと、知ったことをできるだけ多く、周りにいる人に伝えていくということだろう。


【2017/03/26 19:49】 | 活動報告
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唐桑ツアー 報告書社会学部 
現代文化学科1年 
橋本夏乃

 今回の唐桑ツアーは、私にとって初めてのボランティア活動であった。私は、frontiersには所属しておらず、一般参加者としてツアーに参加した。今回のツアーで印象に残っている言葉はたくさんあるが、一般参加者の目線からすると「唐桑の人は、外から来た人を快く受け入れてくれる。」という言葉だ。この話は、唐桑に到着する前から小倉先生や田北先生から伺っていた。行きの電車でこの話を聞いたときは、ピンと来なかったが、ツアー初日の夜には既にその言葉の意味を理解する事ができた。初日の夜に、宿に来てくださった「からくわまる」さんは、移住者の方が中心となった団体であり、町の人が受け入れてくれなければ上手くいかなかった町おこし事業であると思うし、移住者の一人である立教大学OGのEさんが生き生きと過ごせているのも、唐桑の人々の人柄の良さからなのだとわかった。そして、先輩方が、一般参加者の私達をすぐに受け入れてくださったのも、唐桑の地を何度も訪れ、唐桑の人々に接してきたからなのだと、理解できた。

 2日目に、米沢さんにお会いし、米沢さんのビルに連れて行っていただき、お話を伺った。 震災を実際に経験した方からお話を生で伺うことも、私にとって初めての経験であった。米沢さんから聞いた2011年3月11日の話は、自分の想像していた以上に悲惨なものであった。米沢さんのビルでハシゴに登ったり、屋上に行ったりし、実際米沢さんが震災を経験した場所でお話を伺えたことが、よりリアルさを与えてくれた。
ひとつ、ひとつ記憶を辿ってお話をしていただくのは、辛いことだと感じたが、米沢さんは「話すことで、自分もあの日のことを忘れずに済む」と仰っており、米沢さんの心の強さに脱帽した。米沢さんが強く仰っていた「3年後にまた陸前高田に来て欲しい。まちの復興を一緒に見届けて欲しい。」という言葉を忘れずに、次は自分の家族や大切な人を連れて行きたいと思った。 その時に、まちの復興がどのようにして進められてきたか説明できるように、これからも陸前高田の復興を遠くからではあるが、見守っていきたいと思った。

3日間の唐桑ツアーで、私は一般参加者としての引け目もなく、田北先生、小倉先生、そしてfrontiers の皆さんと過ごすことができ、唐桑の魅力、震災の恐ろしさ、まちの復興、そして 人の温かさを感じることができた。 3日間、そのような環境を作って下さった全ての方に感謝したい。


【2017/03/26 19:48】 | 活動報告
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唐桑ツアー報告書
社会学部現代文化学科2年 
珠村 智

 唐桑ツアーへの参加は今回が2度目となります。東北を訪れるのは4度目の、軽いベテラン。少なくとも、初めて東北に行く1年生に比べれば、ベテラン扱いになるみたいです。
今回の参加者にはFrontiersの1年生が4人、一般参加者が2人。約半数が初めて東北に来た学生であり、言い換えれば、私は経験があるもう半数の「先輩」となります。はっきり言って、私が東北について知っていることなど本当にわずかなことばかりです。1年生に対して偉そうに教えていくなど滅相もない、という状態でした。
 しかし、初めて参加する1年生たちに教える立場になっていたことは、自分自身驚くことでした。2日目の午前、2人~4人ほどのグループに分かれて情報を共有しました。私は自分が持っている情報、そして胸からあふれ出る気持ちを可能な限り伝え、会話を回す立場にいることに気づいたのです。自分は被災地について、ボランティアについて、こんなにも深く考えていたのか!と衝撃を受けたほどです。
1日目の夜に民宿つなかんでお話ししたからくわ丸のみなさん。私はボランティアのありかたについて相談し、お互いの意見をぶつけ合うことができました。それを1年生たちと共有し、一緒に考えることができたのではないかと思います。
 とはいっても、先輩になった自分に自惚れているだけではなく、反省点も見つかりました。まだまだいたらないことが多いということ。特に運営に関して言えば、先輩に頼る部分がとても多かったと思います。今回は3年生の先輩がいたわけで、なんとかなったということです。
 前回の唐桑ツアーでは、唐桑ツアーを実施する意義について考えるという目的が存在しました。ここで再び考えたいのですが、何のための唐桑ツアーなのでしょうか。Frontiersの意義とは何でしょうか。私が1年生の頃、こんな風に説明していました。 ―被災地に行き、現地の人との交流を続けることで、離れた地域に暮らしている私たちが震災の記憶を忘れないようにする― 私はFrontiersの広報活動を少しばかりしていますが、最近はこうした説明をしていなかったように思います。社会学部に所属するメンバーであるということで、社会学部の授業や企画での広報活動に力を入れていたものの、「唐桑の面白い人たちに会いに行く」くらいしか伝えていなかったのです。自分はこれまで、東北について学ぶ立場の人間でした。しかしこれからは伝え、広めていく立場でもあると、気づくことができました。もちろん、学んでいく姿勢も大切だと思っています。今回の唐桑ツアーでは新しい発見もたくさんありました。現地で活動する人たちの気持ち。復興が進む被災地の様子。これからも継続的に訪れ、より深く知りたいと感じました。
 新しく話を聞くことができた御崎神社の伊東さんや、まちづくりカンパニーのみなさん、そしてこれまで何度もお世話になっている米沢さんや民宿つなかんのみなさん。これからも唐桑ツアーを続け、何度も交流することを強く望みます。
 今回の唐桑ツアー、2日目には台風が接近し、大雨と強風によって午前の予定が空くという事態となりました。先述の通り、私たちはこの時間を使って現地で見聞きしたことを、自分たちの意見を、共有することができました。当初の予定が狂ったのは残念ですが、これは大きな収穫ではないかと思っています。夜、眠たい目をこすってミーティングをするのでなく、朝、しっかりと振り返る。先輩が情報を共有し、後輩たちと一緒に考える。私は、一年生たちが東北について考える、そのサポートができれば、と思います。
今までお世話になった3年生の先輩と唐桑ツアーに行くのは、おそらく最後です。実感は、まるでわいてきません。これからは私たちがまとめ、引っ張り、新たな道を切り開いていく立場になると思うと、今回の唐桑ツアーをしっかりと噛みしめ、次につなげていこうと思います。



【2017/03/26 19:46】 | 活動報告
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2016年度 8月唐桑ツアー報告書
経済学部 経済学科 2年
船田 駿介

 僕自身、2度目の唐桑ツアーとなった今回は、人とのつながりを意識できるものであったと思う。前回の報告書では、唐桑ツアーを通して、自分のやりたいこと、これから東北と関わっていくうえで自分のすべきことが見つかったというのを書いた。それにプラスで今回は、また何度も唐桑へ訪れたいという気にさせてくれたのではないかと思う。
 初日、僕は失態を犯してしまう。唐桑ツアー前日に熊本へ小旅行へ行っていた僕は、飛行機の欠航により、予定通りの時間に唐桑へ行くことができなかった。そしてなんとか21時過ぎにようやく唐桑入りすることができた。民宿のつなかんに到着した僕は、まず、つなかんの一代さんに温かく受け入れてもらった。そのとき、覚えてもらっていたことがすごく嬉しくてしょうがなかった。僕の中では、まあ覚えてもらっているだろうなという感覚はあったけれど、口に出して受け入れてもらえたことに、より一層の嬉しさを実感した。この時からつなかんに魅せられ始めたと思う。
 最終日に、震災のはるか前から活動をしていたまちづくりカンパニーの方々とお話しをした。はじめ見た時、「なんだこの人達は!」と思った。僕の中では、3人のおじさんの出で立ちがフジテレビ系列で放送されている「僕らの時代」を連想させるような感じがして、少し面白かった。最初は「どんなお話をしてくれるのだろう?」という身構えた形でお話を聞いていた。唐桑元町長のKさん、服屋のSさんの口からは、凄く唐桑への愛を感じる話が聞けたと思う。愛があるからこそ、「まち」について真剣になれるのだろうし、あんなにも夢中でまちづくりについてお話をしてくれるのだろう。
 僕はそんな2人の唐桑愛が凄くわかる。なぜなら僕自身が地元の千葉大好き人間だからだ。サッカーが大好きな僕は、小さいころから地元の千葉をそっちのけで、浦和、鹿島といった強いJリーグチームを応援する意味が分からなかった。どんなに千葉が弱いと言われようとも、千葉が好きだから勝って欲しかったし、2部リーグに落ちても必死で上位に食らいつこうとする千葉が好きだった。そんな僕は歳を重ねるごとに千葉愛は増し、何としてでも千葉に住み続けたいから、将来の夢は千葉県内で公務員をやるということだったりする(笑)。
だからこそ、誰よりも2人の唐桑を愛する気持ちが伝わってきたし、話してて凄く楽しい時間を過ごせたのではないだろうか。このまちづくりカンパニ―の方々と出会えたことは、唐桑ツアーでの貴重な出会いであり、これからも大事にしていきたい財産だ。
 唐桑ツアーのように人から話を聞くのは復興支援なのか?僕は復興支援だと思う。僕という人間が知らない地の人とつながりが持てた。これは、被災地の人にとってもつながりをもてたことにもなる。1人の人間の幸せを増やせることは充分に支援である。
僕は2回目のツアーで唐桑ツアーの楽しさを理解した。だから、唐桑には最低2回行くことを勧めたい。



【2017/03/26 19:44】 | 活動報告
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8月唐桑ツアーを終えて
社会学部社会学科3年
岩谷菜央

 2016年8月の唐桑ツアーは、私がツアーとして東北に行くものとしては最後のものとなった。初めて私が東北を訪れたのは大学1年生の終わりであった。唐桑ツアーや社会学部の授業で東北に行く活動なども含めると、数年の間に何度も同じ場所を訪れたことになる。唐桑ツアーは活動としては分かりやすい活動ではなく、活動を行っている私自身もこの活動に意味はあるんだろうか、と何度も思う時があった。私の心の中でさまざまな紆余曲折があり、決して良い思いだけを唐桑ツアーに対して抱いていたわけではなかった。だが、8月に最後に行ってみて、「また唐桑にいつか自分は行くだろうな」という気持ちが残った。
 思い返すと、一年生の時に最初に唐桑や陸前高田を訪れた時はただ圧倒されていただけだったように思う。圧倒されたのは、出会った人々の語りであったり、何もない更地の土地であったり、見たり聞いたりするもの全てだった。そもそも私はボランティアをしたいという気持ちは最初から持っていない。ただ震災が起きた時はテレビや新聞を介してしか被災地を見ることができなかったから、直接自分の目で見たいと思った。それで唐桑ツアーに参加したのだ。そんな私だったが、三日間のツアーは、自分自身で直接被災地へ赴いてみると、あまりにも情報量が多すぎた。このよく分からない圧倒される感覚は何なんだろうかと思い、私は再び唐桑ツアーへ参加することになる。
 二回目に参加したツアーでは、圧倒されるということはなくなったものの、今度は負の感情に襲われた。この感情は私が勝手に感じたものであるから、決して唐桑ツアー自体や、唐桑や他のまちやその地の人々のせいでは決してない。しかし、たった二回唐桑へ足を運ぶだけでは、入り込めないコミュニティがあることを感じた。そのコミュニティを目の前にすると、自分などが東北に行く必要性など感じなかった。すでにいる人たちだけで十分やっていけるだろう、と感じたのだ。今振り返ると、子どもの感情である。だが、その時の私は、なんというか自分たち以外の人間がとてもあつく唐桑というまちで盛り上がっていることに対して、疎外感を感じたのである。コミュニティの中の人間は楽しくても、それは単に他の人間を排除しているだけではないか、と勝手に考えたのである。
 そんなことがあって、私はしばらく東北から離れようと思った。その気持ちが変わったのが、社会学部の「震災のフィールドワーク」という授業である。この授業は被災地へ行って、震災に関係のある人々にインタビューをし、その語りをもとに報告書を完成させるという授業だ。その中で、私が気になった土地は、やはり唐桑であった。自分なら絶対に都会に住んだままが良いのに、わざわざ唐桑のような田舎町に移住している若者たちがいるらしい、と聞いた。そのうちの一人に私は話を聞くことになった。
 唐桑に再び戻ってきて、いつも泊まっている宿で女将さんたちに出迎えられたとき、私は不思議とそれまで感じていた負の感情が浮かばなかった。ただまたこの土地に「帰ってきた」という感覚がした。負の感情が消えたのは、時間をおいて自分の中でリセットされたから、というのが一番大きい原因であると私は思っている。ただそれに付け加えて、いつの間にか「帰ってきた」という感覚になるほど、愛着をこの地に少しだけ持っていたのだな、と自分で感じられたことも一因ではないかと思う。
 それ以降は、この地に足を運ぶことが苦ではなくなった。その一方で、自分はこの地に対して何も返すことができないな、と思った。自分が良くしてもらっている分、唐桑にただ行くだけではなく、何かをしたいという純粋な気持ちがあった。そして、唐桑ツアーという活動として、ただその土地に行って人に会ったりするだけで何か意味があるんだろうか、という考えが常に頭をもたげていた。
 そして私が三年生へと進級する前、「このままだと来年度以降も唐桑ツアーを継続するのは難しいかもしれない」という話があがった。結果としては、今年度は一年唐桑ツアーを継続させてもらえることになったのだが、当時は本当に学校からの援助を受けられなくなってしまうかもしれない、という状況であった。
 私はこの状況に大変焦ったが、しかしその一方で、これを機に唐桑ツアーの活動を考え直し、より充実した活動に変えられるかもしれない、と密かに喜んだ。そして2016年の3月、今後どのような活動にしたらいいのか、現地の人にひたすら聞いて回る唐桑ツアーを組んだ。聞いた結果は、「ただ来てくれるだけでいいんだよ」という、本当にいつも私が聞いてきた言葉だった。最初は、その言葉の先に何か隠れた欲求があるのではないか、と私は考えた。しかし、それ以上の言葉を聞くことはできなかった。ツアー中、私はこのツアーは失敗した、と思い非常に情けない気持ちになった。
しかし、最終日でお会いした以前唐桑でまちづくりを行っていたおじさんたちとお話をして、その気持ちは払しょくされた。その方たちと会ったのは私と同じサークルを率いる学年の人だけで、下級生はいなかった。だから、皆真剣に今後の活動をどうしようか迷っていることを話した。それに対して返ってきた答えはやはり「来るだけでいいんじゃないかな」ではあった。しかし、今までその言葉をどこか嘘だと考えていた私は、自分たちがこんなに真剣に話して返ってきた言葉がそれなのだから、嘘ではない、とここにきてようやく分かった。来るだけで良いという今まで何度も聞かされてきた言葉を真に受けとめられた瞬間だった。
 今後の活動の指針がとりあえず見えたので、私はとても満足だった。今回8月も唐桑ツアーに参加したが、正直言うと私は3月のツアーで答えが見つかったので、燃え尽きていた。ほかのみんなには悪いが、燃え尽きていたので3月ほどの意気込みは正直なかったのだ。例え援助金がなくても、指針がぶれなければツアーは続いていくだろう、という確信が持てたからだ。しかしその8月ツアーで、かき養殖を行っている、宿泊している宿の女将さんが、立教のかきのいかだを作ろう、と持ちかけてくれた。
 これは本当に嬉しかった。嬉しかったと同時に、思いがけぬところで今までの唐桑ツアーが急に結果となって表れた気がして、びっくりした。
 今度こそ本当に学年が変わっても、そして唐桑ツアーという形でなくなっても、ただその地に行けば活動は続いていくな、と確信して、私は安堵した。 
 唐桑ツアーというのは難しい。確かに何度も足を運び、その土地の人々に会うことに意味があるんだ、と自分たちのなかで確信していても、それを人に伝えるのは根気が必要である。今回女将さんがいかだを作ろうと言ってくれたからこそ、周りに伝えると、「今までの関係が実を結んだね」と分かりやすく周りの人間は分かってくれる。当事者である自分たちにとっては、いかだを作る、というプロジェクトがなくても、現地と関係ができていることは何となく感じることができる。しかし、周りにそれを分かりやすく伝えるには、今回のようなことがあると、とても楽になってしまうんだな、と私は感じた。唐桑ツアーは、自分たちが満足するだけでなく、周りにその意義を伝える必要性がある。行っている活動のすごさを伝えるのではない。自分たちがどんな活動をしていて、そこでどんなことを得て、どんなことが達成できているのか、小さなことでもいいから伝える必要があるのだ。
 しかし、その一方で唐桑ツアーに参加した人全員が必ず何かを掴まなければいけない、というものでもないはずだ、と私は思う。私は様々な人との出会いが唐桑ツアーでは一番面白いと思った。一応ボランティア活動と銘打っておきながら、ついぞ私は「ボランティア」というものをした覚えはなかった。ただ人と会って楽しく話していただけである。そこに惹かれて何度も唐桑ツアーに参加した私のような人間もいるし、きっと全然違ったところに惹かれた人間も多いと思う。そして、別に唐桑ツアーのような活動には興味が出なかった、という人もいるんではないかと私は思う。ただ、「自分はこのような活動には興味が向かないんだな」、と分かってくれればそれで良いと思う。唐桑ツアーに参加すれば、人の気持ちが劇的に変わり、どんどん活動にのめりこむようになる、というのが全てではないと私は思う。プラスの感情だけでなく、負の感情もどこかで発生するはずだ。だから、唐桑ツアーで全員が同じ方向を向く必要はないのだ。皆がそれぞれの立場で向き合っていればそれでいいと思うのだ。
 長くなってしまったが、唐桑ツアーは本当によく分からない活動である。活動の成果を人に説明するのは難しいし、活動の意義は結局のところ自分で見つけていくしかない。その過程が楽しいだけではなく、つらいこともあると思う。私は結局のところ、人と会うことの面白さしか発見できなかった。人とつながっていくことで、何かが生まれることを8月ツアーでは実感したが、それもたまたま分かりやすい形で現れただけである。
 私はまちの復興に積極的にかかわっていきたい、という気持ちはあまり生まれなかったし、今後もずっと唐桑と付き合っていくのかに関してはとんと分からない。人に会いたいという気持ちは、その会いたい人がいなくなってしまったり、その人の違う面を見たりしたら、冷めてしまう気持ちかもしれないからである。私は永遠に唐桑と付き合って、精力的に活動することはきっとしない。大学時代の1ページになるかもしれないし、社会人になったらもしかしたら一年に一回くらいは行くかもしれない。
ただ、東京にいてこんな文章を書いていると何だかネガティブな気持ちになってくるが、きっと唐桑を訪れた時、「帰って来たなあ」という感覚は変わらないんだと思う。
 今のところは、自分が免許をとったら唐桑まで車を運転して色んな人に会いに行きたいなあ、という気持ちがあるのみだ。それだけはどうしても実行しなければいけない気がしているのだ。今まで唐桑の人と色んな話をしてきて、散々お世話になったから、お礼をしたい、という気持ちに近いのかもしれない。


【2017/03/26 19:41】 | 活動報告
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