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立教生ができる支援とは?立教生ができる支援をやろう!私たちができることを考え実行するプロジェクトとして、立教大学社会学部が立ち上げた「RDY(立教生ができることをやろう)支援プロジェクト」のブログ
ツアー最終⽇の午後、私たちはマルゴト陸前⾼⽥の古⾕恵⼀さんに陸前⾼⽥市を案内してもらいました。マルゴト陸前⾼⽥は、陸前⾼⽥の魅⼒を発信したり、震災の教訓などを伝えたりしています。古⾕さんは神奈川の出⾝で東⽇本⼤震災を実際に現地で体験したわけではありませんが、震災前から⼤学時代のアカペラのサークルで陸前⾼⽥を訪れていたことを活かし、陸前⾼⽥の今と過去と未来を伝えています。今回のツアーでは、奇跡の⼀本松、気仙中学校、今泉地区の⾼台、復興まちづくり情報館を案内していただきました。

最初に訪れた奇跡の⼀本松がある場所は、震災前は⾼⽥松原と言い、植えられたたくさんの松の緑が青々と生い茂っていました。震災でその松は流され、奇跡の⼀本松のみが残りました。私たちが⼀本松に行ったときは周辺で⼯事が⾏われていたため、近くで見ることはできませんでしたが、あの巨⼤な津波によって多くの松が流されるなか、唯⼀残った奇跡の⼀本松がまっすぐ空に向かって伸びている⼒強さを遠くからでも感じることができ、「奇跡の」と⾔われる所以を理解しました。

次に訪れた旧気仙中学校は海から近く、校舎全体を覆うほどの津波が来ました。地震が起き たとき、先⽣が海を見て津波が来ると感じ、咄嗟の判断で当初の避難場所よりも⾼台まで⽣ 徒・職員全員を避難させたことで、犠牲者を出していません。気仙中学校より海から離れた 場所にあるにもかかわらず、他の学校では犠牲者を出してしまったという話を聞き、常に最 悪の状況を考えて、迅速で適確な判断によって行動することが⼤切だと強く感じました。

その後、今泉地区の⾼台へ⾏きました。この⾼台は津波の被害を受けた⾼⽥地区、今泉北地区の低地に盛⼟をするため、ダイナマイトで⼭を破砕し、ベルトコンベアで⼟を運んだあとの場所です。⾼台からは、近くで⾒たら⼭のように⾒える重機、⼒強く伸びていた奇跡の⼀本松が⼩さく⾒えるほど、広い被災地が広がっていました。また、奇跡の⼀本松、気仙中学校だけでなく、ユースホステルや旧道の駅(タピック45)、定住促進住宅といった陸前⾼⽥市の震災遺構のすべて、そして最近できたばかりの道路を⾒渡すことができました。震災遺構は、震災やそれに伴う津波がとても恐ろしい被害をもたらしたことを、次の世代に教訓として伝えるために残している建物のことです。陸前⾼⽥市の震災遺構は、その場所で犠牲者がいないという基準で残されています。

最後に復興まちづくり情報館に訪れました。そこでは陸前⾼⽥市をあらわした模型がありました。その模型を⾒ながら古⾕さんが、市役所の新庁舎をどこに建てるかで意見が分かれているということを教えてくださいました。意⾒は、市役所を津波が到達した⾼⽥⼩跡地場所に建てるか、津波が届かないところに建てるかで⼆分しています。その割合はほぼ半分です。同じ陸前⾼⽥に住んでいる⼈でもこんなにも意⾒が真っ二つに分かれていることに⾮常に驚きました。⼈の気持ちはとても複雑で、⼀枚岩ではいかないことを実感しました。
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    高台から見た今の陸前高田
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   上と同じ場所の高台(2014年度の唐桑ツアー)
(法学部二年 本橋真美)

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【2019/06/19 00:00】 | 未分類
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齊藤さんのお話に耳を傾ける参加者
 草木も青々として、春の訪れを感じられるようになった岩手県陸前高田市の広田半島。海が眺められる、ちょっとした高台に齊藤さんのご自宅はあります。

  齊藤さんは私たちの年齢に近い方で、地元の企業に勤めており、陸前高田の復興計画やまちづくりに意見や関心をお持ちです。今回私たちが訪れた理由は、以前Frontiersメンバーの一人が齊藤さんにお会いした際、彼の今までにない視点の話に、メンバー全員で聞く必要があると感じたからです。

 初めてお会いする方でしたが、齊藤さんは温かくご自宅に迎え入れてくれました。東日本大震災の爪痕はいまだに残っており、壁には津波が到達したことでできる茶色い線が、今でも確認できます。齊藤さんは被災者ということもあり、首都圏で暮らす私たちが知らない、被災地の状況を教えていただきました。

私が特に衝撃を受けた事実は、復興に関して、地元住民と学者の考え方の違いです。例えば商業施設建設に対して、学者は次の津波に備えて一階部分を駐車場に、二階部分を施設にしたほうが良いと提案しました。しかし、この地域には足腰の弱い高齢者が多く住んでいます。地元住民は、いつ来るか分からない津波のために、不便を強いられるのは酷だと主張します。私は、地震・津波に対する危機感を人一倍持っている住民に対して、日常生活に支障が出るほどの備えを講じるのは、やりすぎだと感じます。

また海と共に生きてきた地元住民は、学者が提案する防潮堤(陸前高田では12.5メートル)で海と陸とを分断することに、強い抵抗感があるそうです。海、そしてそれに付随する浜は、自然の恵みを受領する場である一方で、自然のリスクをコミュニティ内において共有する場として、重要な役割を果たしてきました。海は地元住民のアイデンティティの一部です。私は今まで、復興計画に対してなんら疑問も持ちませんでした。しかし今、防潮堤がいたるところで見えるこの地方でお話を聞き、学者はその土地の文化により配慮すべきだと感じます。

配慮すべき点は他にもあります。支援を受ける際、地元住民は「被災者」の線引きに戸惑いがありました。被災地には、家や家族、職場をなくした人もいれば、それらの一部、または全部無事だった人もいます。いったいどこからが「被災者」なのか、果たして自分は「被災者」なのか、地元住民の葛藤はとても大きかったといいます。また同じ「被災者」であるにもかかわらず、支援や物資の量の違いなどで、住民間に溝が生まれるケースもあるそうです。同じ集落でも、被害が大きいために支援や物資を多く受け取る「被災者」は、他の「被災者」よりも多く受け取ることを当たり前と考え、一方で少なく受け取る「被災者」は、そうした考えに抵抗感が生まれ、結果として両者の間に亀裂ができてしまいました。こういった話はテレビではあまり放送されない内容なので、私はこの事実にとても驚きました。

他にも齊藤さんは、震災前の人口を基準にした地元の復興計画に対して、疑問を提唱しています。人口が減った町、つまり税金を払える人が減った町で、前と同じインフラを整備しても維持できるのか。未来をもっと考えるべきだと語りました。


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お話を聞き、被災地の今後を考える参加者
 齊藤さんは大学生の時に、被災者ならではの視点で、被災地のことを調べたいとの思いから、震災で犠牲になった方々の家族に聞き取りを行いました。すると遺族の方々は、「亡くなった夫が帰ってきた」「亡くなった息子は見えなくなっても、いなくはないんだよ」と語りました。最愛の人の死を受け入れているように見える方々が、なぜこのような、一般とはやや異なる「死」の捉え方をするのでしょうか。同じ災害における死という観点から、阪神淡路大震災との関係を考えてみたいと思います。阪神淡路大震災は早朝に発生し、亡くなった方々の死因の多くが、建物の倒壊、家具の転倒に伴う「圧死」でした。これに比べて、東日本大震災では平日の午後に発生し、職場や外出先で津波に遭遇した人々が多くいました。こうした経緯から、東日本大震災の被災地の遺族間では、「もし逃げていたら、私の家族は助かったのではないか」という発想になりやすいそうです。加えて、市街地の嵩上げにより、震災直前まで暮らしていた土地に住めなくなり、愛着ある土地と別れることになりました。家族と土地の二つを喪失した中で、なぜ遺族の方々は、一般とはやや異なる「死」の捉え方をしたのでしょうか。

そこには「オガミサマ」という存在への信仰が関係してきます。「オガミサマ」とは、霊の口寄せや占いなどを行う、神様の力を借りた「巫女」のことを指します。彼女らが行う行為を「神さま遊ばせ」と言います。自然を相手にする漁業のために神頼みを行ったり、また亡くなった人の霊を鎮め、仰せ言を今後の生活の導きにするなど、地元住民にとってはとても重要な存在です。旧暦の小正月(1 月15日)には、公民館などで一年間の吉凶を各家で占う「神さま遊ばせ」が行われてきました。この行事には主に一人ずつ女性の年長者が参加したとされますが、この「小正月」という日は、家事を優先的に行っていた集落の女性たちが、積極的に外出することが許される特別な日でもありました。そこで行われる「神さま遊ばせ」は、集落の中において、女性たちの連携を深める機会でもありました。震災後では、女性の社会進出や参加者の減少、高齢化、集まれる場所の減少などで、集団で行う「神さま遊ばせ」の数は少なくなりましたが、一方で個人が「オガミサマ」に故人の遺志を問う行為は現存しています。ここで、遺族の方が一般とは異なる「死」の捉え方をする二つの理由が明らかになります。まず一つ目に、土地に根付いた「オガミサマ」の信仰により、彼らが死後の世界と現世との距離感が近いと感じているからです。この二つの世界間での繋がりを、齊藤さんは「縦のツナガリ」と定義しました。二つ目に、集落において、定期的に集会を行う文化があり、そこで感情の共有をすることが可能な関係性がつくられていたからです。この関係性を「横のツナガリ」と齊藤さんは呼びました。つまり陸前高田は、この二つのツナガリが交差する特別な場所であり、こうした状況が遺族の「死」の捉え方を変えていると齊藤さんは語りました。

最後に齊藤さんは、「本当の意味での復興とは、悲しみを乗り越えた先にある、被災者のほほえみである」と語りました。私たちが復興といってまず初めに思いつくのは、瓦礫の撤去や家屋の建築などではないでしょうか。しかし齊藤さんは、精神面での復興が重要であると考えています。日常での精神的安寧、あの日のリアリズムを大っぴらに公開できるようになって、初めて復興といえるのではないでしょうか。今までのツアーにはない、被災地と復興への思いを聞くことができました。

(法学部2年 江崎凌矢)


【2019/06/12 00:00】 | 未分類
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陸前高田市の広田半島。その先端にあるのが、広田唯一の民宿志田です。ご主人の菅野修一さんは、漁師として、広田をはじめ大船渡の碁石海岸など周辺地域の先頭に立って、漁業の振興に携わっています。また、全国各地での漁業関係の会合に出席したり、政界への働きかけなども行なったりしています。

 

実はこれまで、唐桑ツアーで広田半島を訪れたことはありませんでした。今回のツアーの行程について話し合う中で、毎回訪れている場所には継続して訪問し、その上でこれまで訪れたことのない新しい場所に足を踏み入れてみたいという意見が出ました。そこで、地図を広げてみて、その地名しか把握していない広田半島に足を踏み入れることにしました。ただ、メンバーの誰も広田半島、民宿志田についての知識がなく、何も知らない状態で行くのはもったいないと思い、ツアー本番の1か月前に、メンバー数人で下見に行きました。初めて訪れて緊張気味であった自分たちを、志田の皆さんは温かく迎えてくれました。夕飯を食べながら、震災当時の状況や、復興工事の現状などを教えてくれて、翌朝には港に案内してもらい、水揚げの様子を見学しました。いま自分たちが立っている港が、震災後は水に浸り、復旧までかなりの時間を要したことなど、事細かに説明してもらいました。この下見での出来事や、実際に泊まって感じたことを、唐桑ツアーの参加メンバーにも共有して、少しでも宿のイメージを持ってもらった状態で行くことができました。また、下見の際に、広田半島でおすすめのスポットはないかと聞いてみたところ、「黒崎仙峡温泉」から観た景色がきれいだということを教えてもらいました。そこで、今回の唐桑ツアーで、希望者を連れて温泉に行くことにしました。

 

 温泉施設の中に入ると、地元の住人に加え、学生の集団もいて、にぎやかな雰囲気でした。最大の目的である景色を楽しみに湯船に入ると、残念ながら既に日は落ち、窓の外は真っ暗でした。次回夏のツアーで、あらためて訪れようと思います。

 

 宿に着くと、まるで実家に帰ってきたかのような、温かい雰囲気に包まれていました。荷物を置いて、大広間に向かうと、豪華な夕食が並んでいました。民宿志田の魅力は、なんといってもその食事です。その日に修一さんが獲りにいった新鮮な魚を、お客さんに提供してくれるのです。この日は、カニや刺身、わかめ、煮つけなど、豪華な料理が並びました。修一さんと、ここに長期滞在している工事関係者の方に剥き方を教えてもらいながら、ものすごい量のカニを食べました。その新鮮さのためか、魚そのものの味をしっかり楽しむことができる、とても美味しい夕飯でした。
Supper

夕飯に出た料理の数々


夕飯を食べ終えた後、修一さんと奥さん、またちょうど同じタイミングで宿泊していた、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんがいる食卓にお邪魔しました。安田さんは、民宿志田と深く親交があり、宿の玄関には、震災後の修一さんとお孫さんの物語を綴った安田さんの写真絵本『それでも、海へ 陸前高田に生きる』が置いてあります。それを読むと、修一さんの震災後の漁への葛藤と、漁師の家系に産まれたお孫さんの海や魚への思いが伝わってきます。


翌日も早朝に出航するにも関わらず、話が盛り上がり、23時過ぎまで話に付き合ってくれました。「網を仕掛けるだけだから翌日は4時に出発する」という言葉を耳にし、内心その船に乗ってみたいと思いました。その場では特に意思は伝えませんでしたが、このチャンスを逃さまいと、3時半に目覚まし時計をセットし、しっかり3時半に起きました。修一さんの姿を何とか探しだし、咄嗟に「船乗せてもらえませんか?」と聞くと、約束をしていなかったにも関わらず、「いいよ」と快く受け入れてもらいました。さらに、「寒いからあったかい恰好してけよ」と言われ、嬉しさが抑えられないまますぐに着替えて、同部屋の男子とともに2人で車に乗りこみ、港へ向かいました。


港は暗く、波音もほとんどせず、とても静かでした。出航すると、港で感じた海の穏やかさとは裏腹に、バランスをとるのも一苦労で、海に投げ出されるかと思うほどでした。仕掛けのポイントに到着し、網を仕掛ける様子を見学しました。想像していたより網は長く、仕掛け終えるまで数分かかりました。港までの帰りは、船上での自分たちの姿を見かねたのか、操舵室の中に入れてくれました。そこで、修一さんは震災時のご自身の体験を語ってくれました。


修一さんは震災発生時、家族の無事を確認してから、一人で港へ向かい、津波が押し寄せる中、沖に向かって船を出す「沖出し」をして、広田町根岬港で唯一自らの船を守りました。レーダーを指さしながら、当時どのあたりまで船を出したのか、またその時、この操舵室から見た海の様子などを話してくれました。窓の外には、陸から運ばれてきたがれきがあふれ、下から突き上げるような波に恐怖を感じたといいます。震災当時、修一さんが長い時間を過ごした同じ空間に入り、船の揺れを感じながら話を聞いたことで、その時の光景や孤独感を想像することができました。

 

民宿を出た後、昼前ごろに奥さんから電話がありました。もしかしたら忘れ物をしたのかなと思って電話に出ると、「今朝、仕掛けに行った網が今年一番の大漁で、100匹くらいのマスがかかった」と嬉しそうな声で教えてくれました。どうやらご主人が、早朝船に乗せた自分たち2人にそれを伝えたかったようです。何かを手伝ったわけではないですが、自分たちがこの大漁に貢献することができたかのように、とても嬉しくなりました。

 

今回、民宿志田に宿泊して体験したことや感じたことを、もっといろんな人に伝えて、魅力を広めたいと思います。この記事が、その一つになればいいなと思います。そして、またあの温かい宿に宿泊することを楽しみにしています。


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根岬港に入ってくる、第二志田丸 (2月の下見の際に撮影)

 

(社会学部3年 渡辺健吾)


【2019/06/05 00:00】 | 未分類
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岩場を案内してくださる千葉正樹さん


ツアー3日目の午前は、前日までとは雰囲気を変えて少々スリリングな体験を。唐桑半島で農家を営まれている千葉正樹さんにガイドをお願いし、巨釜・半造付近の沿岸部の岩場でトレッキングを行いました。千葉さんは農業のみならず、半島のツアーガイドやトレッキングガイド、カヌーやシーカヤック体験の提供といった「唐桑へ人を呼ぶ活動」をされています。Frontiersでは、昨年のツアーの際もお世話になりました。


Trekking

慎重に岩場を進むメンバー


今回は一般参加者も含めて初めて体験するメンバーが多く、足場のない岩場での移動に悪戦苦闘。どこに手足をかければバランスがとれるかを自分で考え歩みを進めていくことは、まるでパズルのような面白さがありました。眼下に広がるは、荒々しい波が音を立てながら打ち寄せては返す東北の海。そのあまりの迫力に、大自然の偉大さを改めて実感せずにはいられません。折石をのぞめる大きな岩に上らせてもらったり、打ち上げられた天然のホヤを初めて目にしたりと物珍しさに心躍らせ、そうしてようやくたどり着いたのは、飛沫のかかる波打ち際ぎりぎりの場所でした。「一見海に浸かっていなくとも、岩の色が変わっているところまでは波の来るところ。逆にそれさえきちんと見極めれば、海はそんなに怖くはないんだよ」と千葉さん。こうしたこともあり、私たちは間近で臨場感ある波を楽しむことができました。改めて、こういった場に来る際の正確な知識の大切さを痛感します。とはいえこの日は一際波が荒かったらしく、最も大きな波が大量の飛沫をまき散らしながら轟音とともにこちらに向かってきたときは、さすがに恐怖を感じました。それとともに突きつけられたのが、自然を前にした人間のなんとちっぽけなことかということ。日常にはない、まさに「生きた体験」ができたのではないでしょうか。


sea_spray

この日一番の波しぶき


トレッキングを終えた後に、巨釜~半造へと抜ける唐桑の自然を堪能しました。唐桑独特の草木が生い茂る森の中を進むのは、東京での生活に馴染んだ私たちにとってとても新鮮かつ気持ちの良い経験となりました。途中、メンバーの要望から海岸に寄り道した際、砂利の浜辺を進みながら聞いたのは、近年海岸がコンクリートによって固められ、天然の浜辺が少なくなっているという千葉さんのお話。中でも印象的だったのは、「津波で破壊されたのは人工物であり、自然はほぼその形を変えていない」ということでした。もはや当たり前となった人工物に囲まれての生活ですが、それらはすべて自然界にとっては異物も同然なのだと。自然災害を通して、人々の作り出したものの有限性を知り、その儚さ、あっけなさに、しみじみと想いを馳せたひと時でした。

(文学部3年 森田樹奈)



【2019/05/29 00:00】 | 未分類
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震災直前と現在の米沢商会ビルの外観(それぞれ上と下)

米沢祐一さんは、当時陸前高田市の米沢商会ビルで包装資材や事務用品を取り扱う「パッケージプラザ ヨネザワ」というお店を一家で営んでいました。東日本大震災の津波発生時、ご自身はビルの屋上に逃げ一命をとりとめましたが、指定避難所に避難したご両親と弟さんを亡くしました。震災直後に町の人々の声にこたえて、またそれに支えられてプレハブの建物でお店を再開し、現在に至ります。今年の秋前には、かさ上げされた土地の上に立つ建物にお店を移転するということでした。

写真上は、震災直前に撮影された米沢商会ビルで、下の写真は今回私たちが撮影したものです。実は、2011311日は、お店は大きなセールをしていて上の写真からは、当時のお店の賑わっている様子が目に浮かびます。それに対して現在のビルの周辺は閑散とした風景が広がっていて、本当に8年も経ったとは思えない復興の進み具合を目の当たりにするとともに、寂しさを感じました。

 

この度、私たちは米沢商会ビルの中に実際に案内していていただき、米沢さんが当時体験した津波の記憶を追体験しました。地震発生後、米沢さんは、このビルの近くにある倉庫で揺れにより散らかった商品の片付けをしていました。ひと段落してビルに戻ると、ご両親と弟さんはすでにビルの後ろにある、避難場所として指定されていた市民会館に避難していました。とっさの判断で1人ビルに残った米沢さんは、はじめは津波のことは頭になかったため、そこまで急ぐことなく一階から二階に上っていきましたが、二階の窓から迫ってくる黒い波を見て焦りを感じ、二階から三階は一目散に駆け上りました。三階の窓から同じように外の黒い波を見てさっきよりも高い水位で迫ってくるのを確認し、「これはダメだ」と思い急いで屋上に出ました。屋上に出るドアを開けると、目の前には本来見えるはずののどかな街並みは見えず、全部が真っ黒だったといいます。屋上を超えて自分の足元までその黒い津波が来ることがわかり、屋上に据え付けられた煙突に行くはしごを登りはじめ、津波はその途中で屋上を超えてきて、自分の足元に迫ってきました。そして写真のように煙突の頂上部分に両手で煙突の端をつかみしゃがんだ格好で避難しました。津波は、足元わずか10センチメートルに黒い水と土埃がうねりを伴って押し寄せ、その高さで止まりました。この時点で津波は地上から約15メートルに達していたことになります。もし津波があと10センチメートル高くきていたら、米沢さんは足を持っていかれ、助からなかったことは必至でしょう。しばらくして米沢さんがふと周りを見ると360度すべて津波で、ビルの後ろにあった、そしてご両親と弟さんが避難した市民会館の屋根は見えず、津波の底に沈んでいました。ここで、米沢さんは、「ああ、もう皆生きてないな」と、3人の死を覚悟し、さらにビルより海側の人々は亡くなっただろうということも悟ったといいます。


しばらくして津波が引き、煙突から降りた米沢さんは、それまで気が張っていて感じていなかった寒さを感じ始め、防寒のため、たまたま屋上にあった段ボールとお店のビニール袋で全身を覆い、風を少しでも避けようと煙突のすぐ下のところで一夜を過ごしました。私たちがお話を聞いていた日も非常に寒く、寒さに皆震えていたのですが、米沢さんが屋上で過ごしたこの時の気温は当時の記録を調べるとなんと氷点下に達し、しかも津波により衣服が濡れた状態で何時間もさらされたため、低体温症になっていたといいます。


次の日、米沢さんは、上空をヘリコプターが飛びかい、ビルから離れた建物の屋上で救助されている様子を見て、ビルより海側の人々はもうなくなったと思っていたけれど、自分と同じように生き残った人がいたことを知ります。救助を待ってもなかなか気づかれなかったため、ヘリコプターから見て分かりやすいように米沢さんは屋上の津波が引いて残った土の上に「SOS外に出れない」と書き、救助を求め、昼過ぎに救助されました。


その後、自分の家族を探すため毎日遺体安置所を巡り、のちに警察からの連絡があり、ご両親、その後弟さんとご遺体の形で再会することになります。いくつかの遺体安置所を回っているこの間、身元確認のために多くの亡くなられた方々の顔を見ていく中で、お店によく来てくれたお客さんや、近所のよく知る人たちを見つけたといいます。つい最近までおしゃべりしていた町の仲間と、こんな形で再会することを誰が想像できたでしょうか。また、この時にご遺体と再会することができず、今も行方不明となっている多くの方々のご遺族を思うと、胸を締め付けられる思いがします。


この日は大震災があった3.11の次の日ということもあり、説明する米沢さんの声が時々途切れる場面もあり、特にご両親と弟さんとの最後の会話や、三人の死を覚悟したという場面では、涙をこらえることができませんでした。


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米沢さんが避難した煙突の頂上部分


お話の最後に「何度でも訪れてほしい。そしてビルから見える変わっていく景色を一緒に見たい。」と米沢さんがおっしゃっていたことが印象的です。米沢さんはこのビルをご自身で震災遺構として保存しています。その決心の裏には多くの悩みがあったことと思います。しかし、こうして自分の体験を話して伝えていきたいという思いからビルを残す決断をされたことは、陸前高田市のまちや津波を知らない私たちにとって本当にありがたいことです。体験談を繰り返しお話してくださることは決して簡単なことではないと思いますが、大震災を知らない世代の子どもたちにもぜひ伝えていっていただきたいです。


私が次に訪れたときには、今は建物や人のない屋上からの景色がどう変化しているのかを、ぜひ拝見したいです。人々の賑わいが少しずつでも戻ってくることを心から願います。また、私もこのようなブログを通して、あるいは身近な人に話す機会を増やすなどして、なるべく多くの人に伝えていけたら、と思います。最後になりましたが、このような機会を設けてくださった米沢さんに改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。

(社会学部2年 大河原咲良)


【2019/05/15 00:00】 | 未分類
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